+聖母崇拝と錬金術(1)
 錬金術とヨーロッパ精神史のつながりを考える場合、今一つ手がかりになるのは聖母崇拝の理念である。この理念は福音書の処女懐胎の伝承によって原始キリスト教の中に現れてきたものであるが、ここには、キリスト教的人間観に内在する運命的な両義性が示されている。
両義性というのは、次のような意味である。処女懐胎の伝承は、イエスが肉の結合から生まれた存在でなく、イエスにおいて完全な人間の理想をみるとすれば、われわれは、人間性における肉の原理、つまり身体の価値を否定しなくてはならない。つまり、肉に死して霊によみがえるのが真の人間として生きる道でなくてはならない。ここから、霊と肉、精神と身体を分離する二元論的人間観が生まれてくる。
 しかし、処女懐胎の伝承は反面において、地上の肉的女性であるマリアを神聖視する信仰を生み出す。これによって、身体、特にエロスの象徴としての女性的原理を聖化する考えが生まれてくる。したがって処女懐胎の信仰は、霊と肉を分離する心身二元的な人間観と、逆に、肉体もまた神の栄光に与りうるとする心身一元的人間観の双方に道をひらく二義的な可能性を蔵しているのである。
エロス原理と身体性を重視する考え方は、古代ではグノーシス主義の流れにつよくあらわれている。またキリスト教内部では、東方教会(ギリシア正教)の方に比較的つよくみられる。4世紀にキリスト教が国教化されて以来、グノーシス主義は異端と見なされ、異教的傾向をもつエロス崇拝の思想は民衆信仰的底流になってゆく。ここで聖母信仰は重要な役割を果たすようになる。精神史の表面流を形成した正統教義学の世界観・人間観と、異教的起原(あるいは異端的傾向)をもつ民衆信仰の世界観・人間観を融和させる緩衝地帯の役割を果たすようになるからである。
         1月9日
    
    人と妻は二人とも裸であったが、
    恥ずかしがりはしなかった。
                 (創世記2:25)
 「バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女は誰でも一生に一度はアプロディテの社内に坐って見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。・・・女たちの間を縫ってあらゆる方向に通ずる通路が綱で仕切ってあり、よそからきた男たちは、この通路をたどりながら女を物色するのである。・・・女は金を投げた最初の男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰るが、それからはどれほど大金を積んでも、その女を自由にすることはできない。」(ヘロドトス『歴史』)。
 「乳と蜜の流れる地」として選民イスラエルに与えられた約束の地は、実は先住民のこのような異教的風俗の浸潤していた地であり、エリヤ以来の預言者たちが生命を賭して戦わねばならなかったのは、このカナンの淫蕩なバアル宗教であった。それは穀物と家畜の豊産を祝い祈願する豊饒の祭りであり、その聖所に奉仕する男女の聖婚がいて、祭そのものが強烈に性的色彩をおび、端的にいえば性の祭典であった。それは多産と新しい活力とが与えられると信じた一種の通過儀礼であり、決して性の頽廃の結果ではない。極めて真剣な宗教的営みである。しかしそれは聖書の世界ではない。
 創世記2−3章は、1章とともにキリスト教人間学の要ともいうべき重要な章で、古来より多くの論争をひき起こしてきた箇所である。知恵の木と蛇の誘惑が、性的なものを暗示するかどうかは問題であるが、その結果が性の目覚めであり、裸体の羞恥であったことは示唆的である。
 人はいつ、裸の自分を「恥ずかしい」と感じたのか。それは、神の言いつけに背き、取って食べてはならないと言われた木の実を取って食べた時からである。聖書は、罪を犯した男と女の最初の反応が「羞恥」であったと語る。「二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3:7)のである。
 ともかく堕罪以前には、男と女は子供のように裸を恥じなかった。そこには生物学的な意味での性はあっても、主体的な性の意識はなく、何の汚れもなかった。ただ澄みきった諧調と和楽があるのみであった。ところが、蛇の誘惑に負けて木の実を食べた瞬間、彼らは俄然として性に目覚めたのである。神の顔をさけて木陰から、「裸だったので恐れて身をかくしました」(10)と答える彼らに、「裸であることを誰が知らせたのだ」(11)と神は追求する。責任は女に、女から蛇にと転嫁される。結果は呪いと罰−まず蛇、次に女、それから男に対して−蛇との宿怨、出産の苦痛、女の男への依存、男の絶えざる生活の苦労、ついには死すべき運命。深いえぐりで、厳しい生の現実が浮き彫りにされる。
 神によって造られた性がなぜ恥ずべきものとなり、祝福さるべき出産がなぜ死の苦痛を伴うのか。女はなぜ男を慕い、男はなぜ死ぬまで働かねばならないのか。聖書は、それらの理由を人間の最初の罪に帰する。そしてその後の人間の歴史は罪の歴史であり、性の調和と人間の完成を目的とする結婚もまた、罪の中に成立すると見る。
そして今、私たちの周りから急速に「羞恥心」が消えつつある。裸が氾濫している。世界はエデンの園に近づいたのだろうか。そうではない。罪の感覚を失っているのである。その結果、世界は破壊と創造の根源であるカオスに一歩近づいている。大地の希望−十字架のキリストが輝きでる日は、そう遠くないのではないか。
+事効論と人効論(5)
 錬金術師の関心は、主観的には、卑賤な物質の闇に閉じこめられた霊的存在を抽出し、解放することであった。そのために、祈祷と断食と瞑想に身をささげ、自己贖罪の努力をせねばならないと彼らは信じた。
 彼らは彼らが探求している賢者の石をキリストと同一視し、自分たちはキリストに学ぶのだと信じていた。しかし外から客観的にみれば、彼らは自己の人間的努力によって物質の中から賢者の石=キリストを解放し、救済しようとしている人間である。端的にいえば、彼らはみずからを〈神の救済者〉という不遜きわまる位置に置いていた結果になるのである。
 むろん彼らは、宗教的誇大妄想からそう考えた訳ではない。主観的には、彼らは、自分がキリストに近い人間であるなどとは夢にも考えていない。人間の霊魂の神的救済者であるなどと思っていない。錬金術師はまず何よりも、謙譲と忍耐の徳をそなえ、常に神に祈る人間でなくてはならない。だから彼らは、その作業にかかるに当たって、常に、神への祈りと瞑想を行わなければならなかったのである。
 要するに、彼らは主観的には、自己が神の導きによってのみ進み得る人間であると信じていたにもかかわらず、彼らのなしつつある行動と作業は、客観的にみれば、救済者としてのキリストをみずからの力で救済する位置に至ろうとする〈傲慢不遜〉で涜神的な企てを意味していたのである。そこに彼らの悲劇がある(今日、同じ悲劇を演じているのが、神を、人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない、愛と憐れみの存在とする〈社会福音派〉である)。
           1月8日

    人は言った。
    「ついに、これこそわたしの骨の骨
    わたしの肉の肉。
    これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
    まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
                   (創世記2:23)
 フロイトの予言――
 かつて、家族は唯一の共同体であった。しかし今、産業社会が力を増している。それは、家族よりも強力な存在となるであろう。家族は今、崩壊の途にある。まず、若者たちが家族の束縛から逃れようとしている。男たちも、家族以外の集団に依存しなければ生きてゆけなくなり、それだけ夫や父親としての任務から遠ざかりかねない。とり残された女たちは、その変化に不安と敵意を抱いている。やがて女たちも家庭の外に目を向け、妻として母親としての任務から遠ざかりかねなくなる。そのとき、家族はぬけがらとなるであろう――(小此木啓吾による『文化とその不安』の解説)
 女は「彼に合う助ける者(ふさわしい伴侶)」として男の骨の骨、肉の肉として「男から取られた」と聖書は語る。それは、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥の中に独りでいる男の孤独を癒すものがいなかったことによる。男は動物に名を与えた(19)。つまり主従の関係には存在の孤独を癒すものはないのである。
 女は男の深い眠りの間に、最後に造られた。女は、神が人間に与えようとするあらゆる善きもののうちで、最後の、最高の秘義に満ちた「美」なのである。この美だけが、存在の孤独を癒すのである。
男は瞬間的に女が完全な相手であることを感得し、挨拶する。ここに「男女の激しい衝動がどこからくるのか、それが子供において再び『肉体』となるまでは、休むことがないのはなぜかも明白なのである。」(フォン・ラート)。
 「ふさわしい」伴侶という言い方は、旧約では18節と20節の二回しか使われていない。直訳すれば「彼の前にあるごとき」で、「彼と同等である面と補い合う関係とを一句で表している」(左近淑)と言われる。
 ふさわしい助け手とは、人が土地を「耕す」(5)時の「手助け」ではない。男が生きてゆくために利用する〈手段・道具〉を意味するのではない。すぐれて〈人格的〉な関係である。決して主従の関係ではない。男が女を支配する(3:16)のは女が犯した罪の結果である。そして今、神の創造の秩序は崩壊の途にあると〈フロイトの予言〉は語る。現代の先進諸国において、男と女、夫と妻の関係は揺らいでいる。それは閉ざされた未来への不安に根ざしている。
 男女同権、男女共同参画が叫ばれて久しい。それは小さな家族の大きな崩壊を癒すのだろうか。「旧約のなかで、あるいは旧新約を通じて、いったい性はどれほどの比重をもち、どのような意義をになっているだろうか。・・・創世記の最初と黙示録の最後の数章を読んだだけでも、ある程度の予想はできる。つまり、神が人間を男と女につくった究極の意味は、『小羊の婚姻』(黙19以下)の秘義をさとらせるためではないだろうか。そうだとすれば、性の問題も結局は終末論的にみなければならない、ということになる。」(中沢洽樹)。
 性はわれわれにとって人類存続のため不可欠の生物学的条件であるばかりでなく、創造の秩序におけるその差異が、救済の秩序においては、生物学的基盤をこえて神と人間とを結ぶ神学的象徴となるのである。「小羊の婚姻」という希望が見いだされなければ(エフェソ5:21以下)、崩壊を続ける家族に再生はない。
+事効論と人効論(4)
 ユングはこの人効論の流れと軌を一にするものに中世の錬金術があるという。錬金術師は、直接には物質の中にある霊的な存在の抽出(すなわち救済)に関心をもっている。物質の中には聖なる存在がとらえられており、それを取り出すには贖罪の努力が必要である。ユングは、物質の中に閉じこめられた霊魂の救済に当たって、人間である錬金術師自身が贖罪の作業を引き受けなければならなかったという点で、特に注意を促している。
 キリスト教における救済は、キリストの死と自己犠牲(注 自己犠牲を「死」と並列したことに根源的問題が残る)によって可能になった。したがって、肉の身体が犯す罪に悩まされて救済を欲している人間の魂は、みずからキリストの自己犠牲の業に学ばねばならない。神がマリアの子として彼女の胎内に宿ったとき、すなわち神の霊的な力が最高の形態における肉身と物質の代表者である「大地の処女」の中に入った時、人間の魂も救済の可能性を与えられたのである。したがって、信徒がみずからキリストの業を学ぼうとする時、イエスは信徒の祈りとともに彼らの肉身の中に再建され、救済者として彼らの魂の中に宿る。その霊的種子を成長させるためには、人はみずからイエスとともに苦難の暗夜に下降する決意をもたねばならない。ここにおいて錬金術師の生き方は、常に自己の魂の内面を見つめ、おのれの心の「影」の領域とたたかう禁欲的修道者の生き方と似てくる(注 似て非なるものであるが)。
 すでに触れたように、中世後期にはアシジのフランシスコに代表されるようなさまざまな禁欲的民衆運動が起こってきたのであるが、中世錬金術は、そういう時代の動きにともなって発展してきたものであった。しかしこれらの運動の中には、カタリ派やワルド派のように、教会から異端宣告を受けて禁止されたり弾圧されたりするものもでてくる。教会が民衆運動を取り締まった直接的な政治的理由は、これらの運動の中から、教会制度の枠の外で救済を求めようとする志向が芽ばえてきたからである。錬金術は、そういう異端的民衆運動と同じ方向に歩みつつあったのである。ここに派、異端的民衆運動と錬金術に共通した悲劇的性格があらわれている。民衆は、主観的にはキリストに学ぶ清貧と禁欲の信仰生活に身を投じているつもりであるのに、教会権力からは憎むべき異端として迫害されるに至る。錬金術もやがてルネサンス時代に至って、これと同じ運命をたどるのである。

 | BLOG TOP |  NEXT»»