1月12日
主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、
彼に、自分がそこから取られた
土を耕させることにされた。
(創世記3:23)
「かくしてわれわれはいま、前代未聞の世界を前にしている。以前われわれの生存理由が支えられていた一切の価値が崩壊したか、さもなければ再検討されつつある。・・・われわれは、要するに人間というものは、普遍的諸関係の全体の中に自分が所属していると信じない限り、内面的にも、恐らくは表面的にさえも、生きることが不可能であることに気づいたのだ。」(エリー・フォール)
いま、私たちの前には〈前代未聞の世界〉が横たわっている。 現代は技術の時代であり、それに随伴するあらゆる帰結は、数百万年のうちに人類が身につけた労働方式、生活形式、思惟様式、象徴、その他全てのものの存続を全く許さないのである。「現代人は最も深い意味で自己の依拠するものを見失っている。人類がその歴史を費やして獲得した貴重なものを、宗教も哲学も、その他もろもろの価値も、あらかた壊してしまったのである。」(稲村博)。
すべては人間が「善悪の知識の木」(2:17)の実を取って食べたことから始まった。「善悪を知る」とは道徳な意味ではない。ヘブル語の用語法によれば、あらゆることの体験、あらゆる事柄、秘密の支配を意味する。つまり〈神のように〉知る、ということである。「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。』」(3:22a)。
こうして人間は神に反抗し、服従の単純さから抜け出して得た知識で、二度と逆向きになりえない一つの道を歩き出したのである。神はエデンの園から人間を追放し、「ケルビムと、きらめく剣の炎」で「命の木」に至る道を守らせた。神のこの迅速な決断には、人間の恐るべき可能性に直面したときの真の古代人の恐怖を感じる。「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(3:22b)。
神は、神のようになろうとした人間をエデンの園から追放する。その人間を待ち受けているのは、不思議に、エデンの園にあったときと同じ生活、つまり「土を耕す」(2:15、3:23)生活である。それはエデンの園を追われた人間の「普遍的諸関係の全体」である。もちろん、そのままではない。人の罪により、地は「呪われたもの」(3:17)となったからである。
前代未聞の世界で人は土を耕す。エデンの園での生活をエデンの園の外でも続ける。そこに限界を超えた世界での在り方がある。
私たちの前に横たわる前代未聞の世界とは、絶望的な貧困状態や資源の浪費、有害物質の蓄積、そして自然が破壊された世界である。それは技術改良や環境意識の高揚、環境政策の強化が見られるにもかかわらず、持続可能性の限界を超えてしまった世界である。現在の在り方では、人間に未来はない。もし未来というものがあるとすれば、それは後退的な、速度を弛めた、癒しの未来以外には考えられない(『限界を超えて』)。エデンの東の世界が持続可能であるには、生産性や技術以上のもの、つまり、成熟、憐れみの心、智慧といった要素が要求されるのである。聖書はこう語る。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)。ここにだけエデンの東に生きる人間の未来がある。