#「美しい国・日本」再考

+私たちの国は今、憲法改正に向けた国民投票のあり方をめぐっ
 て公聴会を繰り返している。この時、靖国神社のA級戦犯合祀
 について国家の関与を示す資料が見つかった。国家の意志によ
 ってA級戦犯が合祀されたことが明らかとなった。国家の意志
 によって、あの戦争で命を落とした亡霊たちは憲法改正の先に
 どのような日本を見ているのだろうか。
 戦記文学不朽の名作『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満は、『戦
 没学徒の遺産』の中でこんなことを記している。

  「私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがあ
  る。それは、戦没学徒の亡霊が、戦後三十数年をへた日本の
  上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている
  光景である。死者がいまわのきわに残した執念は容易には消
  えないものだし、特に気性のはげしい若者の宿願は、どこま
  でもその望みをとげようとする。彼らが身を以て守ろうとし
  た“いじらしい子供たち”は今どのように成人したのか。彼
  らのいう日本の“清らかさ、高さ、尊さ、美しさ”は、戦後
  の世界にどのような花を咲かせたのか。それを見とどけなけ
  れば、彼らは死んでも死に切れないはずである。
   彼らの亡霊は、いま何を見ているか。商店の店先で、学校
  で、家庭で、国会で、新聞のトップ記事に、何を見出すだろ
  か。・・・」

 改憲論者からも護憲論者からも、「美しい国・日本」の姿が見
 えてこないのはどうしたことか。

+それぞれの民族、文化圏は、それぞれある特定の美の体験の下
 に立つ。イスラエルにとって特徴的なことは、神の自己放棄に
 至るまでのヤハウェの下降にはその美表出を伴うという点にあ
 る(フォン・ラート)。天を引き裂いて低き地に下った神イエ
 ス・キリストこそ“最高の美”なのである。
             #パッション

+機会を得て、久しぶりに「パッション」を観た。ゲッセマネの
 園の祈りから、ゴルゴダの丘の十字架刑までの一日、正確には
 12時間の主イエスの苦しみを描いた映画である。約2時間の
 放映時間は、始めから終わりまで主イエスの苦しみを描き続け
 ている。思わず目を背けたくなるような凄惨な場面が幾つもあ
 った。キリストに投げかけられた罵詈雑言、その体に振り下ろ
 された鞭打ちは、見る者の忍耐の限界を越えている。いつしか
 キリストが鞭打たれるたびに、全身に電流が流れ、棘が心に突
 き刺さるのを感じた。わたしこそその鞭を受けるべき者であっ
 たのです。
 監督はかつて薬物に溺れた経験があるという。そこから立ち直
 るのにカトリックの信仰が大きな役割を果たしたと聞く。画面
 は、キリストが十字架に釘付けにされるところで、最後の晩餐
 のパン裂きと杯の場面を重ねていた。まるで聖餐のパンとぶど
 う酒は十字架に磔にされたキリストの体そのものである!とい
 っているかのようです。血しぶきを上げ、肉片が飛び散るキリ
 ストの苦しみに見入りながら、ふと、ひざまずいて聖餐に与る
 とはこういうことなのだ、と実感した。私たちの罪のために、
 神がこれほどまでに苦しまれたのです。誰がひざまずかずにい
 られるでしょうか。
        #サクラメントとしての結婚式
 
+知人に頼まれて、写真館のスタジオで結婚式の司式をした。日
 本人の妻とオーストラリア人の夫の結婚式だ。二人とももう若
 くはない年齢であった。
 昨日の今日の話であった。知人は近くの病院で婦長をされた方
 であった。余命3ヶ月を宣告された女性がいる。その方の看病
 のためにオーストラリアからやって来た男性がいる。写真館で
 ウェデングドレスを着た写真を撮り、指輪を交換したいと言っ
 ている。私たちに指輪交換のセレモニーをしてくれないかと頼
 まれたのだが、任が重すぎる。急で申し訳ないが司式をお願い
 できないか、とのことであった。時間があったのでお引き受け
 した。
 それは実に不思議な体験であった。まるで聖餐式に与った時に
 受ける深い感動があった。改めて、結婚が“サクラメント”で
 あることを強く実感させる出来事であった。というか、サクラ
 メントをサクラメントたらしめる要素が何であるかを知らしめ
 る体験であった。深く死を想うこと、メメント・モリがなけれ
 ばサクラメントは単なる象徴でしかない。
 程なく死が二人を分かつ。ふとアウグスティヌスの母モニカの
 臨終の言葉が脳裏をかすめた。旅の途中で臨終を迎えたモニカ
 は、故郷で死なせたいとの願いを口にした息子たちにこう言い
 残している。「このからだはどこにでも好きなところに葬って
 おくれ。そんなことに心をわずらわさないでおくれ。ただ一
 つ、お願いがある。どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を
 想い出しておくれ」。
 そうだ、これからは主の祭壇のもとで逢えるのだ! そこに希
 望を見いだして欲しいと願いつつ家路についた。
           #日本的霊性

+今日の日本人の大部分は死ねばお寺の世話になるであろう。し
 かしそれだからとて日本人が仏教徒であるといえば何処かしら
 おかしいところがある。仏教の経文を一字も知らない、仏教の
 説教を一度も心から聴聞したことのない日本人は現在極めて多
 い。また神道を家の宗教とする家もあるにはあるが、神道の教
 理を体系的に教えられ、それを理解し信奉している人々が果た
 してどれほどあるかといえば、その数は極めて少ないに相違な
 い。またキリスト教を信仰する人々もあるが、その数もまた少
 ないと思われる。それゆえ、キリスト教徒が唯一の神の前に自
 己の罪を告白してゆるしを乞うという行為の意味を日本人は一
 般に理解し得ない。
 …日本人の大部分は、古代以来、救われることに対して、本当
 は無感覚に、誰にも愛されることを知らず、大きな力に帰依し
 て、それに、愛を求めることも、救いを求めることも知らずに
 生き渡って来たのではなかろうか。
               大野晋『日本語をさかのぼる』
        “十字架は大地の希望である”

+キリスト教的生活においては信仰が優先するが、希望は優位す
 る。信仰するとは、十字架につけられた方の復活によって突き
 破られたところの限界を先取的希望において踏み越えることで
 ある。
 キリストの復活の中に天国の永遠をではなく、そこに十字架が
 立っている大地の未来を認識するのである。それはキリストの
 中に、彼がまさにそのために死んだ人類の未来を認識するので
 ある。それがゆえに十字架は大地の希望なのである。それゆえ
 にこそ、この希望は、身体の服従を求めて苦闘するのである。
 なぜならそれは、身体が生かされることを待望するからであ
 る。それゆえ、この希望は破壊された大地とさいなまれた人間
 を柔和の中に引き受けるのである。なぜなら、その希望には全
 世界が約束されているからである。ほむべきかな十字架−唯一
 の希望よ!(Ave crux---unica spes!)  
                 モルトマン『希望の神学』
+歴史をつくるのは民衆だというが、民衆それ自身ではない。民
 衆は本質的に保守的なもので、自己保存的な体質を持ってい
 る。歴史を決定的に動かすのは、民衆から離れず、民衆の一歩
 前を自覚的に歩いてゆく少数の小リーダーである。その小リー
 ダーの運動が、不断に変革を準備することをしていなくては、
 歴史の創造の主役として民衆が政治の局面に登場することはあ
 りえないと思う。  
                 色川大吉『昭和史世相編』

+主のもとから慰めの時が訪れる。神が万物更新のために再びイ
 エスを遣わしてくださるのである。この神の宣教(ミッシオ・
 デイ)が教会をきよめる。それが教会を十字架のもとに、すな
 わち教会が安全である唯一の場所に置く。十字架は謙遜さとさ
 ばきの場所である。しかし同時に、新しく力を受ける場所、新
 生の場所でもある。したがって教会は十字架の共同体として、
 単なる「教会員」の交わりではなく神の国の交わりを構成す
 る。教会は、「宗教組織」としてではなく出エジプトの共同体
 として、人々を終わりのない祝宴に招くのである。
+現代においてはすべてが政治である。宗教的なものの物の見方
 は、これと天と地ほども相異しており、同様にその出発点や最
 終目標も、天と地ほども相異している。というのは、政治的な
 ものは地にとどまるために地で始めるが、一方、宗教的なもの
 はその端緒を上方からみちびきつつ、地上的なものを聖化して
 天にまで引き揚げようとするからである。
                  キルケゴール『単独者』

+今、政治の世界では「この国のかたち」を「美しい国・日本」
 に設定して、憲法改正と教育基本法改正に手をかけている。先
 頭に立つ首相の瞳に“美”が見えないのは私だけだろうか。
 “美”は漢字の構造からすれば、羊が大きいという意味にな
 る。羊は犠牲の象徴である。その払うべき犠牲がきわめて大き
 く、規格を脱し、己れ自身が滅びるほども大きいときに、犠牲
 の羊が大きいという構造の“美”という言葉が出てくる。ゆえ
 に“十字架のイエス”は、美の極地である。
 「われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それは、輝き出
 てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を喚ぶ。」
                       (今道友信)
+不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人
 たちにとって、神の御国なんて、あまりにも縁遠いものである
 から。ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだの
 だ。だから、苦しみは神的な事柄である。
            シモーヌ・ヴェイユ『超自然的認識』

+ペトロは、十字架のイエスを「聖なる正しい人」と呼んだ。
 言い換えると、十字架のイエスは、神の神聖性の最も崇高なも
 の、頑なに神を拒み続ける救いようのない者を救う神の聖性の
 最高の現れなのである。救うに値しない者を救うために、神は
 栄光の主イエスを十字架で殺されたのだ。誰が驚かないでいら
 れるか。驚かないでいられるとしたら、その人は生きていると
 は名ばかりで、すでに死んでいるのである。
+何人も光りを見ることができない今この時代において、光りを
 たたえ神を説くのは空しい。必要なことは、人びとに光りを見
 るすべを教えることなのだ。
                 ユング『心理学と錬金術』

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