#聖餐=死の固めの式

+――大坂夏の陣に於て河内でいち早く討死した木村長門守重成
 どのを、その半歳前に大坂の余の茶室に迎えたことがある。客
 は既に半歳先に迫っている死を覚悟していた。木村長門守にと
 っては今生最後の茶であった。それが余にはよく判った。何と
 言うか、それは自分が死んでゆくことを自分に納得させる、謂
 ってみれば死の固めの式であった。それに余は立ち合わせて貰
 った。茶はこのようなものであったかと思った。
 ……師利休は、また高山右近さまの茶についても言われたこと
 があった。
  自分より三十歳も若い南坊(高山右近)どのであるが、今
 日はどうしても及ばなかったと思った。尤も今日に限ったこと
 ではない。いつも同じような思いにさせられる。どこかに自分
 を棄てて、これが最後といったところがある。あの静かさは普
 通では出て来ない。誰も及ばない。
 天正十八年十二月の終わりに、右近さまを一亭一客でお迎えに
 なった日の夜のお話である。自分の死を予感するという言い方
 をするなら、あの時師利休はあと二ヶ月余り先に迫っている御
 自分の死を御存じなく、右近さまの方はそれから二十四年あと
 の国外追放を、明日のこととして覚悟なされていたということ
 になるのであろうか。
                   井上靖『本覺坊遺文』

+聖餐体験を深めたいと思う。そんな折、この文章が琴線に触れ
 た。死を意識するということは、それが一年先のことであれ、
 三年先のことであれ、いまという瞬間の生を濃密に意識せざる
 を得ない状況をつくり出す。聖餐式はまさに死の固めの式なの
 である。私にはまだ、死の覚悟ができていない。
        #「美しい国・日本」再考(3)

+京都大学で西洋史を専攻し、学徒出陣した林尹夫(ただお)海
 軍少尉。偵察機のパイロットとして、大坂が大空襲で炎上した
 晩、ながい空中戦ののち散って行った林さんの残した手記を、
 (戦艦大和の生き残り)吉田満さんは愛読し、「われらの世代
 の最高の知性」と書いて、その戦死を悼んでいる。

 「――おれは、軍隊に奉仕するものではない。おれは現代に生
 きる苦悩のために働く。
 ……おれは軍隊とか、あるいは機構的にみた日本の国のためで
 なく、日本の人々のために……いな、これも嘘だ。
 おれが血肉を分けた愛しき人々と、美しい京都のために、闘お
 うとする感情がおこる。つまらぬ、とも、訳が判らぬ、とも、
 人は言うがよい。
 おれはただ、全体のために生きるのではないのだ。全体がその
 生命を得ぬと、個人の生命がまっとうできぬが故に、おれは生
 きるのだ。
 この意味で、おれの日本観は純粋でないと言えるかも知れぬ。
 しかしおれは、架空の日本観よりも、たとえ利己的なりといえ
 少数の敬愛する人々のために生きるのだ。」

 (こう記した)林尹夫海軍少尉は、少数の敬愛する人びとと、
 美しい京都のために死んで行った。
 帰属すべきものとして強制される「全体」に「いかがわしさ」
 を感じとる、ある種のすぐれた感受性と自立性をもつ人は、か
 ならず自分が信じることのできる「部分」に帰属しようとする
        (『21世紀は警告する』「祖国喪失より」)

+林少尉の死後60年余、帰属すべき「部分」が崩壊している今
 帰属すべきものとして強制される「全体」の「いかがわしさ」
 だけが目につく。今日、世界を覆いつくす民族抗争はこの「い
 かがわしさ」に端を発しているのではないのか。そもそも国家
 は、帰属すべきものとして強制される「全体」なのか。主イエ
 スは言う。「まず神の国と神の義を求めよ」と(マタイ6:33)
 「したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営
 所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には永遠
 の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めている
 ものである。」          (ヘブル13:13、14)
          #約束の地を見つめて

+2007年度の教会総会が終わり、年間主題が「約束の地を見
 つめて」(旅する教会)と決まった。主題聖句には、約束の地
 を前にして死んでゆくモーセに語られた神の言葉、申命記34
 章4節をいただいた。
   主はモーセに言われた。
   「これがあなたの子孫に与えると
    わたしが・・誓った土地である。
    わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。」

+私たちの教会がこの主題と聖句を掲げたのには訳がある。私た
 ちの教会は数年前から2009年、プロテスタント日本伝道1
 50周年を日本伝道の第三草創期(キリシタンから数えて)と
 位置づけ、聖餐と愛餐の充実により十字架のキリストを描きだ
 す日本伝道の新たな展開を祈ってきた。

+私たちの教会にそのような願いを起こさせたのは、倫理思想史
 家大内三郎がプロテスタント100年の歴史を振り返って記し
 た以下の文章が大きな役割を果たしている。
 「…日本でのキリスト者がもっとも注目、心を砕いた問題は、
 かれらが日本の社会に当面した現実の問題処理、つまり世俗世
 界に対する倫理問題だということである。いいかえると、教会
 の形成、信条、信仰告白、神学、聖書理解の問題など、つまり
 『信仰』の問題もむろん問題にならないわけではないが、それ
 よりも『倫理』の問題により多く関心が払われ、…しかもその
 エネルギー提供源はけっして聖書ではなく、ナショナリズムで
 あった。推測をまじえていえば、キリスト教人道主義に発して
 いると見てよいと思う。・・・そして正にその聖書的でない点に、
 キリスト者の失敗と欠点とが遺憾なく露呈されているとみるの
 である。」

+この荒野を越えてヨルダン川を渡り、約束の地、キリストの十
 字架のもとに立ちたいと思う。そのために今、教会をあげて聖
 書通読と「祈祷書」による祈りの細胞の形成に励んでいる。
         #目を覚ましていなさい!

+私は一切のキリスト教認識のこの中心において、神学者に課せ
 られている全く特別な責任を自覚した。もしここで失敗するな
 らば、全体が失敗なのである。そして、もし、ここで少なくと
 も正しい道を歩んでいれば、全体も間違っているとは言えない
 のである。私は正しい道を絶えず新しく見出すために、そして
 それを見失わないために、来る週ごとに、来る日ごとに、眼を
 さましていなければならなかった。そして今後も、引きつづき
 眼をさましていなければならないのである。
              K.バルト『和解論』 はしがき

+当たり前のことだが、ここ――キリスト教認識の中心――で失
 敗するとき、人は自分の間違いに気づけない。ルターの言う、
 「信仰者の全生涯が悔改めである」(95箇条の提題第1条)
 はこの中心から発せられた言葉である。

+この中心で失敗したものに「社会福音派運動」がある。彼らの
 神は、「人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとん
 ど変わらない、愛と憐れみという存在」である。贖い主キリス
 トは慈悲深い賢い教師イエス、あるいは霊的な天才でその内に
 人類の宗教的なさまざまな能力が十分に開花された者になって
 しまった。「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代
 わってしまった」のである。ここにあるのは罪の感覚の衰えで
 ある。それはキリスト教の中心理念を失うことにつながり、キ
 リスト教を消滅する喪失である。

+これでパウロの嘆きを聞くのは何度目だろう。「ああ、物分か
 りの悪い…人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前
 に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示さ
 れたではないか」(ガラテヤ3:1)。

+私たちは神学者ではない。でも、目を覚ましていたい!
           #病んでいる現代

+世の中にあまりにもカネとモノがあふれ、
 底知れない飽食の渦に巻き込まれているからだろうか。
 あるいはあまりにもすきのない効率社会に
 なり過ぎたためだろうか。
 それとも人のぬくもりや情緒の稀薄な愛の酸欠状態が
 広がっているためなのだろうか。
 自分は何をしてどう生きたらよいのかと道に迷い、
 生きることの不安から逃れようとする
 救命信号と受け取れるさまざまな挫折現象が、
 近ごろ次第にその影を大きくしはじめているかに見える。
 それは“いったい人間はどこへ行こうとしているのか”という
 終末の予兆のような、不気味さを感じさせさえする
 “病んでいる現代”の姿ではないか。
                  斎藤茂男 『飽食窮民』
            #生は愛

 「あなたの愛は生きること――ともかく
 私の愛は生きていてと希うこと――理屈抜きで

 愛に道理も説明も在りはしない
 だって
 私たち夫婦には語り合う手だてが絶たれているのだもの

 ただ 生きていること
 ただ 生きていてと希うこと
 ただ それだけが愛の証し
 たとえ それがどんな苦しいものであっても
 だって
 愛とは苦しいものなのだから

 生は悩みではない
 生は苦しみ
 生は愛」
     (玉川よ志子「表現を奪われた極限の日々を
       進行性筋萎縮性側索硬化症の夫にかわって」)
         #ハッピー・イースター!

+「メシアはこういう苦しみを受けて、
  栄光に入るはずだったのではないか。」(ルカ24:26)

+復活節のよろこびは、苦痛のあとにくるよろこびではない。束
 縛のあとの自由、飢えのあとの満腹、別れのあとの出あいでは
 ない。それは、苦痛をはるか下にして舞うよろこびであり、苦
 痛を完成するものである。
                    シモーヌ・ヴェイユ

+わたしたちの教会では3年前からイースターを迎える準備とし
 て、教会堂内外を鉢植えの花で飾るために「一鉢献金」を行っ
 ている。本来ならば、各家庭の庭に生え出た草花を持ち寄りた
 いのだが、なかなかそうはいかない。そこで考えついたのが
 「一鉢献金」である。長い冬を越えて迎える秋田の春は一斉に
 花が咲き出す。体中の細胞の一つ一つが喜びに沸き立つのを感
 じる。光を求める緑のように、主の光の中を歩みたいと思う。
 苦痛をはるか下にして舞う喜びをもって! 義とされた罪人な
 のだから。
           #イエスの秘義

  イエスはその受難においては、人々が彼に与える苦しみを忍
 び給う。だがその最後の苦悶においては、われとわが身に与え
 る苦しみを忍び給う。「心を傷め悲しみて。」それは人間の手
 からくる苦痛ではなく、全能の御手から来る苦痛である。なぜ
 なら、それに耐えるには全能であらねばならないからである。

  イエスは少なくともその三人の最も親しい友たちのうちに、
 いくらかの慰めを求め給う。しかし彼らは眠っている。彼らが
 しばし共に耐えしのぶことを、彼は求め給う。しかし彼らは、
 まったく彼をなおざりにする。彼らは受難を共にする気持ちを
 もたないので、一瞬間も眠りにうちかつことができなかった。
 かくしてイエスは見棄てられ、ただひとり神の怒りに対し給
 う。

  イエスはただひとり地上に居給う。彼の苦痛を感じ、それを
 分つ者がないばかりでなく、それを知る者もない。それを知っ
 ているのは、ただ天と彼のみである。

  彼はこの苦痛とこの遺棄とを、夜の恐怖のなかで忍び給う。

  思うに、イエスが嘆き給うたのは、このとき一度だけしかな
 かった。だが、このときには、あまりの苦しみにもはや耐えき
 れなかったかのように、彼は嘆き給う。「わが心いたく憂いて
 死ぬばかりなり。」

  イエスは世の終わりにいたるまで苦悶し給うであろう。
                    パスカル『パンセ』
     #恐ろしいことが起こるのは、外からではない

 「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。
 人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、
 わたしを裏切る者が来た。」イエスがまだ話しておられると、
 十二人の一人であるユダがやって来た。(マタイ26:45-47)

+イエスはひとつの秘密を、最後の晩餐の時まで、弟子たちに隠
 していた。なるほどイエスは、自分の苦難の道について、弟子
 たちにすでにいくつかのことを語ってきた。しかし、最も大き
 な秘密はまだ明らかにされていなかった。聖なる晩餐における
 最後の集まりの時になって初めて、イエスはその秘密を弟子た
 ちに語ったのである。「人の子は罪人らの手に渡されるのだ」
  しかも、裏切りによって……。「あなたがたのうちのひと
 りが、わたしを裏切ろうとしている」。
 「敵」だけでは、イエスを思いのままにすることはできない。
 それゆえ、そこに「友」が加わる。最も近い友が、イエスを捨
 てる。弟子が、イエスを裏切る。最も恐ろしいことが起こるの
 は、外からではなく、内からである。イエスのゴルゴダへの道
 は、弟子の裏切りとともに始まるのである。ある者は眠ってい
 る。ゲッセマネにおけるあの眠りをどのように理解したらよい
 のであろうか。ある者は裏切る。そしてついに「弟子たちはみ
 な、イエスを見捨てて逃げ出して」しまうのである。
                      ボンヘッファー

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