#目を覚ましていなさい!

+私は一切のキリスト教認識のこの中心において、神学者に課せ
 られている全く特別な責任を自覚した。もしここで失敗するな
 らば、全体が失敗なのである。そして、もし、ここで少なくと
 も正しい道を歩んでいれば、全体も間違っているとは言えない
 のである。私は正しい道を絶えず新しく見出すために、そして
 それを見失わないために、来る週ごとに、来る日ごとに、眼を
 さましていなければならなかった。そして今後も、引きつづき
 眼をさましていなければならないのである。
              K.バルト『和解論』 はしがき

+当たり前のことだが、ここ――キリスト教認識の中心――で失
 敗するとき、人は自分の間違いに気づけない。ルターの言う、
 「信仰者の全生涯が悔改めである」(95箇条の提題第1条)
 はこの中心から発せられた言葉である。

+この中心で失敗したものに「社会福音派運動」がある。彼らの
 神は、「人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとん
 ど変わらない、愛と憐れみという存在」である。贖い主キリス
 トは慈悲深い賢い教師イエス、あるいは霊的な天才でその内に
 人類の宗教的なさまざまな能力が十分に開花された者になって
 しまった。「同情的イエスがカルバリーのキリストに取って代
 わってしまった」のである。ここにあるのは罪の感覚の衰えで
 ある。それはキリスト教の中心理念を失うことにつながり、キ
 リスト教を消滅する喪失である。

+これでパウロの嘆きを聞くのは何度目だろう。「ああ、物分か
 りの悪い…人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前
 に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示さ
 れたではないか」(ガラテヤ3:1)。

+私たちは神学者ではない。でも、目を覚ましていたい!

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