#「美しい国・日本」再考(3)
+京都大学で西洋史を専攻し、学徒出陣した林尹夫(ただお)海
軍少尉。偵察機のパイロットとして、大坂が大空襲で炎上した
晩、ながい空中戦ののち散って行った林さんの残した手記を、
(戦艦大和の生き残り)吉田満さんは愛読し、「われらの世代
の最高の知性」と書いて、その戦死を悼んでいる。
「――おれは、軍隊に奉仕するものではない。おれは現代に生
きる苦悩のために働く。
……おれは軍隊とか、あるいは機構的にみた日本の国のためで
なく、日本の人々のために……いな、これも嘘だ。
おれが血肉を分けた愛しき人々と、美しい京都のために、闘お
うとする感情がおこる。つまらぬ、とも、訳が判らぬ、とも、
人は言うがよい。
おれはただ、全体のために生きるのではないのだ。全体がその
生命を得ぬと、個人の生命がまっとうできぬが故に、おれは生
きるのだ。
この意味で、おれの日本観は純粋でないと言えるかも知れぬ。
しかしおれは、架空の日本観よりも、たとえ利己的なりといえ
少数の敬愛する人々のために生きるのだ。」
(こう記した)林尹夫海軍少尉は、少数の敬愛する人びとと、
美しい京都のために死んで行った。
帰属すべきものとして強制される「全体」に「いかがわしさ」
を感じとる、ある種のすぐれた感受性と自立性をもつ人は、か
ならず自分が信じることのできる「部分」に帰属しようとする
(『21世紀は警告する』「祖国喪失より」)
+林少尉の死後60年余、帰属すべき「部分」が崩壊している今
帰属すべきものとして強制される「全体」の「いかがわしさ」
だけが目につく。今日、世界を覆いつくす民族抗争はこの「い
かがわしさ」に端を発しているのではないのか。そもそも国家
は、帰属すべきものとして強制される「全体」なのか。主イエ
スは言う。「まず神の国と神の義を求めよ」と(マタイ6:33)
「したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営
所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には永遠
の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めている
ものである。」 (ヘブル13:13、14)