#感受性の変化−死と生
+非キリスト教化という仮説は、フランスがあらかじめキリスト
教化されていたことを想定しているのである。ところで、「と
きとして福音書のメッセージとはわずかな関係しかもっていな
い宗教的実践と教義の混交が、あまりにも長いあいだキリスト
教とよばれてこなかっただろうか。そうだとすれば、それもな
お“非キリスト教化”が語られねばならないのだろうか。」
(ジャン・ドゥリュモー)
+非キリスト教化として理解しうる18世紀における宗教的無関
心は、復活祭や日曜日の務めにたいする全員一致の尊重が消滅
することなく、進行するわけである。けれども、そのような務
めの尊重という見せかけのもとで、根本的な変化が、本質的な
問題に関する人びとの考え方に生じつつあった。
+第一の決定的な激変、それは、死を前にしての態度の変化であ
る。まず、遺言者が自分の魂の安息のためにミサ基金にあてる
金額が減少し、つぎに、死体を埋する墓地にかんする無関心が
はびこり、さいごに、煉獄の苦しみを短くしたり緩和するため
にミサを要求するという行為そのものが消滅するのである。
+もっともひそやかな行為における第二の系列の断絶は、宗教道
徳がまもられなくなっており、聖職者の統制がよわまっている
ことをしめしている。たとえば、避妊行為がそうだ。この人口
動態学上の新しいふるまいは、性交と出産の意図とをきり離さ
ない、キリスト教の性道徳との根本的な断絶を、あきらかに意
味するものなのである。
+18世紀の最後の何十年間かに、世俗化とか“文明化”のプロ
セスの何世紀にもわたる発展が、頂点を迎えることはたしかで
ある。この基本的傾向は、あらゆる神聖化された神話を徹底的
に検討し、あらゆる神秘を除去して、すぐれて社会的な行為は
公的なものとなる、完全に均質な“市民”社会のありかたを如
実に示している。
(ロジェ・シャルチエ『フランス革命の文化的起源』)
+そして今、この“市民”社会が危機に瀕している。悲鳴を上げ
ている。あまりにも自分勝手なわがままが横行している。
「あなたがたは地の塩である。世の光である」との主イエスの
言葉がかき消されようとしている。