#説教と典礼

+「私は説教者であり、説教をすることが好きである。だが、私
 は多くの人々が奨励によって影響を受けるとは思わない。」
         (ラインホールド・ニーバー 1959年)
+牧師になって四半世紀を超えた。この間、座右の銘として片時
 も忘れたことのない言葉の一つに、このラインホールド・ニー
 バーの言葉がある。牧師として最初に遣わされた教会で、一言
 も説教を語れずに講壇を降りたことがある。目の前にはその日
 の説教原稿があった。しかし、それは私が聖書から聞いた言葉
 ではなかった。
+それ以来、この時のことがトラウマとなり、み言葉が語れない
 かも知れないという恐怖心と闘いながら講壇に立ってきた。そ
 の頃、私の中にある一つの思いがあった。「あの戦争を体験し
 ていなくて、戦後の日本と日本人にみ言葉を語れるのだろうか
 ?」という問いであった。
+この問いから解放されたのは1989年、ベルリンの壁崩壊の
 ニュースをテレビ画面で見ていたときであった。それは最初の
 教会から次の教会に移った年であった。そこでの6年間が現在
 の基礎となっている。そこでの働きを終え、現在の教会にその
 働きの場を移したのは阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄
 無差別テロに揺らぐ年であった。
+それから10年余、私は何をしてきたのだろうか。改めてニー
 バーの問題意識の内でもがいていたように思う。ニーバーはこ
 んなことを言っている。プロテスタント教会は「あまりにも説
 教に依存しすぎている。…準典礼的教会に属し、典礼的教会を
 評価している者として、私は、典礼的教会の主な長所は、説教
 にあまり依存していないことだ、と言いたい。仮に説教が悪い
 場合でも、諸君はそれに耐えることができるのだ。なぜなら、
 諸君は典礼において上演されている信仰の全ドラマを見ている
 からである。」
+後に、60年代後半にカトリシズムの大発展について書いた文
 章の中でニーバーは、その「信仰の秘儀の礼典的指示」を「正
 しく」かつ「些細な道徳問題へと退化していく傾向を持つ、プ
 ロテスタントの説教よりも力がある」と述べている。
+改めて思う。私の四半世紀の牧師としての労苦の大半は、み言
 葉(説教)と聖礼典(典礼)の調和にこそあったのだと。そし
 てそのいずれもが中途半端なままである。残された時間は少な
 い。完成を見ることはないと思う。でも、少しでも完成に近づ
 きたいと思う。み言葉と聖礼典の恵みによってしか、人は生き
 られないのだから(参 ヨハネ6章)。

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