#空虚な中心
+1927(昭和2)年、作家芥川龍之介は「将来に対するぼん
やりした不安」のために自殺した。当時の新聞はこのフレーズ
を大きく取り上げた。時代そのものが「将来に対するぼんやり
とした不安」の中にあったからである。明治以来の「脱亜入
欧」といわれた日本の近代化に陰りが見え始めたのだ。この行
きづまり感の中で、時代は一気に戦争へと駆け抜けて行った。
+あの時代の不安を生きた芥川の作品に、『神神の微笑』と題す
る短編がある。ローマから派遣された宣教師オルガンテイノが
日本で伝道することの限界、壁にぶち当たった心の葛藤を描い
た作品である。
+オルガンテイノはぼんやりと追憶に耽りながら、こう呟く。
「この國の風景は美しい。氣候もまづ温和である。…信徒も近
頃では、何萬かを数へる程になった。…して見れば此處に住ん
でゐるのは、たとひ愉快ではないにしても、不快にはならない
筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事
がある。リスボアの市へ歸りたい、この國を去りたいと思う事
がある」と。
+何がオルガンテイノを憂鬱に貶めるのか。彼はこんな祈りを神
に捧げている。「この國には山にも森にも、或は家家の並んだ
町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。さうしてそれが冥
冥の中に、私の使命を妨げて居ります。…その力とは何である
か、それは私にはわかりません。が、兎に角その力は、丁度地
下の泉のやうに、この國全體へ行き渡って居ります」と。そし
て、祈りはこう結ばれる。「まづこの力を破らなければ、…邪
宗に惑溺した日本人に波羅葦曾(天界)の莊嚴を拜する事も、
永久にないかも存じません」と。
+芥川のこの作品を読みつつ、私はイザヤ・ベンダサンが『日本
人とユダヤ人』の中で書いている一節を思い起こした。ベンダ
サンは、日本にはキリスト教徒はいないと言いきっている。居
るのは「日本教徒キリスト派」であると。つまり、「日本人は
天皇を大祭司とする日本教徒」なのであると。こう言ってベン
ダサンは「日本教」の様々な分派として、「キリスト派、創価
学会派、マルクス派、進歩的文化派、PHP派、右翼国粋主義
派」を挙げるのである。
+そしてベンダサンは言う。「日本教という宗教は厳として存在
する。これは世界で最も強固な宗教である。というのは、その
信徒自身すら自覚し得ぬまでに完全に浸透しきっているからで
ある。日本教徒を他宗教に改宗さすことが可能だなどと考える
人間がいたら、まさに正気の沙汰ではない。この正気とも思わ
れぬことを実行して悲喜劇を演じているのが宣教師であり、日
本教徒キリスト派である」と。
+昭和34年、今の天皇・皇后両陛下のご成婚の年、中国文学者
竹内好は「近代の超克」の中で、「一木一草に天皇制がある。
われわれの皮膚感覚に天皇制がある」と、沈痛な思いを表明し
た。日本のキリスト者は、皮膚感覚にまでなっている天皇制を
突き破ることができるのか。私たちはいつまで、「負けですよ
負け」、日本にキリスト教徒などは居ない、居るのは日本教徒
キリスト派であるという声を聞き続けなければならないのか。
+パウロは言う。「生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガ
ラテヤ2:20)。〈わたし〉が生き続ける限り、この空虚な
中心は埋まらない。