#私たちの冒険
+年が明けると、いよいよ教会創立120周年を迎える。数年前
からこの年を日本伝道の第三草創期と位置づけ、「プロジェク
トJ〜キリストの挑戦者たち」を掲げて、み言葉と聖礼典によ
る教会形成をめざしてきた。教会員は平均年齢73歳となる。
この私たちにどのような挑戦ができるというのか。思い浮かぶ
のは信仰の父アブラハムである。
+わたしは、アブラハムは〈人類最初の冒険家〉であると考えて
いる。親族とともにメソポタミアに住んでいたアブラハムに、
「栄光の神」が現れてこう言われた。「あなたの土地と親族を
離れ、わたしが示す土地に行きなさい。」(創世記12:1)
+アブラハムはこの神の言葉に聞き従い、行き先も知らず、まだ
見ぬ地へと旅立ったのである。この時アブラハムは75歳、も
う決して若くはない年齢だった。なぜアブラハムは旅立つこと
ができたのか。
+そのことを思い巡らしていたとき、森有正が国際基督教大学で
行った「冒険と方向」という講演が思い起こされた(『古いも
のと新しいもの』教団出版局)。その講演で森有正は、冒険の
本質について大変興味深いことを語っている。
+「冒険」は漢字からすれば、危険を冒して何かをする、という
意味であるが、「しかしそれは冒険という言葉のすべての意味
ではない」という。そしてラテン語のアドヴェントゥーラ(英
語のアドヴェンチャー)を引き、この語がアドヴェニーレとい
う語に由来することを指摘して、こう言うのである。冒険とは
「何かが起こってくる、ある事件が起こってくる、思いがけな
いことが自分の前にたち現れてくる、そういう意味をもつ」言
葉であると。つまり、冒険家の冒険(危険を冒すこと)とは
「明らかに異質のもの」なのである。
+そして、この後に語られた森有正の言葉は、アブラハムの生き
様と重なる。「冒険は…ある一つの方向に、ある一つの自分で
ないほかのものに自分を結びつけ、それに方向づけられること
によって起こってくる。しかも、その方向というものを最後ま
で堅持することによって、そこに自分だけではどうにもならな
い、自分の自由にならないいろいろなことが起こってくる。」
と。だから、冒険は、自分の方から求めるものではなく、「文
字どおり起こってくるものであって、私どもはやむなくその冒
険に出会う」のである。
+私たちがアブラハムの生涯に見るのは、森有正のいう意味での
〈冒険〉なのである。「わたしたちの父アブラハムがメソポタ
ミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が
現れ」(使徒7:2)た。栄光の神がアブラハムに現れたので
ある。「何かが起こってくる、ある事件が起こってくる、思い
がけないことが自分の前にたち現れてくる。」ここに冒険家ア
ブラハムが誕生したのである。
+そして、私たち〜キリストの挑戦者たち〜の冒険がいよいよ始
まる。私たちを冒険へと駆り立てるものがある。それは神の到
来である。思いがけないことが私たちの前にたち現れてくる!
このアドベントを生きることで、真の冒険家に生まれ変わりた
い。不信心な者を義とするために、御子が天を引き裂いて地に
下る、という全く思いがけないことが起こったのである。
+神の民イスラエルは、この神の自己放棄に最高の美を見た、と
いわれる。「われわれの命に立ち上がる力を与えるもの、それ
は、輝き出てくる美しさだけなのである。美のひとのみが力を
喚ぶ」のである(今道友信『美について』)。