#「儀礼の人間存在論的意味」

+ミサには二つの側面がある。人間的観点と神的観点である。人
 間的観点からすれば、それは人間である祭司と集会参加者が祭
 壇に供物をささげる行為であり、またそれを通じて、キリスト
 の受肉・受難・復活という生涯のわざを「記念」する行為であ
 る。プロテスタント的解釈では、この見方が強調された。
+しかし神的観点からみれば、ミサにおいて起こることは人間の
 行為ではなくて、聖なる出来事である。それは時間空間の彼岸
 に永遠に存在している主キリストがその場に来臨し、祭壇に供
 えられたパンとぶどう酒という実体において、受肉し、苦しみ
 殺され、そして死の力を破り、再び栄光の中へと昇ってゆくこ
 とである。ここでは、祭司はこの聖なるドラマの管理者であっ
 て演技者ではない。演技者は神であるキリスト自身である。パ
 ンとぶどう酒の聖変化は神の恩寵にもとづく自発的で自律的な
 わざとして起こるのであって、祭司の力によって起こるわけで
 はない。カトリシズムの自己奉献の観念はこの点を強調してい
 る。
+聖職者の個人的資質はサクラメントの効果と無関係であるとす
 る「事効」の論理は、以上の意味において正しい。しかしわれ
 われは、ミサの人間的観点をも無視してはならない。ミサ典文
 に「さらば記念して…われらはささげまつる」とあるように、
 祭司と集会はミサの今一つの本質的契機である。
+教会は犠牲をささげる真の祭司はキリストであると解釈する。
 その点では、奉献という行為に人間の意志と能力が関与するこ
 とを〈否定〉している。しかし、ミサを通じて集会(すなわち
 教会)の全体が神にささげられること(神の花嫁であること)
 を認める限りでは、人間の意志が関与することを〈肯定〉して
 いる。
+この矛盾はそもそも、神が人間性をまとったというキリスト教
 の根本的神観からきている。キリストの受難は、神が受肉して
 人間と同じ身体と血を有する存在となったために起こり得たこ
 とである。神が人間性をまとい、受難と死と復活を通じて自己
 自身に還帰するということは、深層心理学的見地からいえば次
 のことを意味する。すなわち、肉的身体と結ばれた人間本性の
 暗黒領域の底には至高なる光がかくれており、その光は現実に
 この闇の世界の中に降り、そこで悩んでいる者、鎖につながれ
 ている者を救済し、永遠の光の世界へと導こうとして、常に働
 きかけている。
+その光の領域は、われわれの生命が生まれてきた源泉であり、
 われわれの魂はそこへ帰ることによって、真の自己自身を見出
 すのである。要するに深層心理学的観点は、事効論と人効論、
 神の恩寵と肉の罪からの自由、またカトリック的な〈奉献〉と
 プロテスタント的な〈記念〉の二つの観点を実存的に媒介し、
 結合する見地を見出すものであるといってもよいのである。

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