#歴史の恐怖
レメクは妻に言った。
「…カインのための復讐が七倍なら
レメクのためには七十七倍。」
(創世記4:23、24)
+アダムからノアに至るまでの系図は、生まれ、生き、そして死
んだと淡々と繰り返す。この系図は、「原初の出来事にとって
不可欠の要素」であると言った人がいる。この系図によって
〈人間の創造〉から〈人類の歴史〉への移行がなされているか
らである。つまり人間はこの時、創造主の祝福により時間の中
へと広がっていく〈歴史的な存在〉となったのである。
+このことは激動の20世紀を生きてきた私たちにとって、ある
特別の意味をもっているのではないか。なぜなら私たちは今、
歴史の苦悩に喘いでいるからである。20世紀を代表する思想
家のひとりヤスパースは、『歴史の起源と目標』の中で、「現
代というこの歴史のきれ目は、結果のゆゆしさの点で、過去五
千年の歴史からわれわれが知るいっさいと比較を絶している」
と言っている。つまり、私たちは今、何千年か何万年かの人類
の歴史に、ただの一度もなかった全く新しいところに立ってい
るのである。ヤスパースは言います。「歴史的圧力はもはやい
かなる逃避をも許さなくなっているとき、いかにして人々は歴
史の破局と恐怖―集団的追放、殺戮から原子爆弾まで―を堪え
忍ぶことができるか」と。
+逃れ道はすべて閉ざされているのです! 退路はすべて断たれ
たのです! 行くも死、帰るも死、留まるも死! その意味で
現代はまさに「歴史の破局と恐怖」の時代なのです。言うまで
もなく、こうした現代という時代の性格を作ったのは科学技術
の進歩です。ヤスパースは言います。「近代技術の出現ととも
に事情は一変」したと。しかも、一見万能に見える「科学は…
しかし精神的には結局無力」であると。科学は精神的には無力
である! その事実を私たちはヒロシマ・長崎に見てしまった
のです。ヤスパースはまた、こうも言っています。「現代は精
神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目指して
の破壊的な下降」を辿っていると。
+ノアの誕生にまつわるレメクの言葉を読みつつ、わたしはこの
ヤスパースの言葉を思い出さざるを得ませんでした。聖書はこ
こにもう一人のレメクを登場させます。このレメクは、世界の
恐ろしさと自己の無力さの中で根本的な問いを発するのです。
レメクは…男の子をもうけた。彼は、「主の呪いを受けた
大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであ
ろう」と言って、その子をノア(慰め)と名づけた。
(創世記5:28、29)
+私たちが真に必要としているのは、七十七倍の復讐を誓うレメ
クではなく、呪われた地、歴史の苦しみの炉で喘ぎながら生き
る者の慰め、ノアの父レメクの祈りではないのか。