#第一部 ミサの歴史 J.A.ユングマン
第四章 ギリシア教父と東方典礼
ギリシア教父(1)
+四世紀のギリシア教父の文献では感謝の祭儀について、度々、
神のいのちと聖霊の働きのことが話題になっている。ここには
論争のさかんな当時の雰囲気が反映されているが、儀式のこと
に注目するときは、「奉献」と呼ぶ。こうして、従来は明確で
なかった新しい観点が浮き彫りにされた。
+感謝の祭儀が奉献だというのは、この祭儀が、共同体のささげ
る行為だからではない。それが、何よりもキリストの奉献を、
十字架上の死の奉献を、私たちにもたらすものだからである。
+たとえばカイサリアのエウセビオス(339年没)によれば、
キリストは、われわれの救いのために、父にすばらしい奉献を
し、「それと同時に、我々が絶えず神に奉献することのできる
記念を託されたのである。」
+この捉え方は様々な形で出てくる。「祭壇と集会のための聖地
が、世界中いたる所に設けられたのである。」そこでささげら
れるものは、「無血の霊的な奉献、祈りと筆舌に尽くしがたい
神の言葉によって、成し遂げられる奉献」に他ならない。
+これと同じ思想を、クリュソストモスが全面展開している。ヘ
ブライ人への手紙には、キリストは一度だけ自分を奉献した、
とある。「でも、われわれは毎日奉献しているではないか。そ
のとおり、だが彼の死の記念をおこなう(アナムネーシン)こ
とによって奉献する。…旧約の大祭司のようにその都度別々の
いけにえを捧げるのではなく、いつも同じ奉献をしていく、い
やむしろ、奉献の記念をおこなうのである。」この思想は、ギ
リシア教父たちの共有財産だったようである。
+クリュソストモスはこうも語る。「供え物をキリストのからだ
と血にできるのは、人間ではなく、われわれを通じて働くキリ
ストご自身である。」祭司が、これはわたしのからだであると
言葉を唱える。「この一言が供え物を変える。…言葉が奉献を
完成させる。」
+キリストは目に見えなくとも、祭儀のどこにもいる。彼は「会
食の主人」である。祭司が聖体を差し出すときも、目には見え
なくとも、それをわたすのは主の手である。祭司であるキリス
ト自身が、献げ物でもある。「捧げられてそこに置かれている
主を見、献げ物の前に立って祈る祭司を見るとき」、もはや地
上的な事物を見ているのではない。