#第一部 ミサの歴史 J.A.ユングマン
        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+いけにえ=破壊説
 いずれの説も、ミサでは、十字架の奉献を記念するだけではな
く、この奉献がなんらかの方法で現在するようになるのだという
ことを、なんとか示そうとしていた。それは、1523年以後ツ
ヴィングリが打ち出し、のちにカルヴァンやイギリスの改革者が
くり返した非難を、明らかに念頭においた目論見であった。すな
わち、キリストはミサの中でささげられると、新たにほふられる
ことになるのである。〈いけにえ〉とは、まさにほふることだか
らである。
 カトリック神学の対応で目につくのは、こうした概念規定に異
議が出なかったことである。バケススは、レビ記23章と24章
に書かれているような祭司による奉献だけで、ミサをいけにえた
らしめるのに十分だという考えを、否定した。理由は、破壊を伴
わないような奉献は、神が事物を支配していることを認める一般
的な表現ではあっても、生死を神が支配していると認める表現に
はならないからだという。したがって改革者の非難に対処するに
は、十字架上の主の死を祭壇上に現在させるものが、ミサの中で
行われることを示さねばならなかった。
    #第一部 ミサの歴史 J.A.ユングマン
        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+トリエント後の神学者
 次の時代の課題は、公会議が別個に論じたものを、神学的なつ
ながりの中に組み込むことであった。それは一部しかできなかっ
た。論争が長引いたせいである。たまたまなりゆきテーマを秘跡
と拝領とミサに分けたことが、その後何世紀も神学論文等に踏襲
された。信者の信心は、一緒に奉献することよりも、聖体を崇敬
する方にのめり込んだ。ここから信者の聖体拝領はどんどん一人
歩きをし始め、ミサとは別個に行われるようになっていく。
 公会議以後の三百年間というもの、主題の神学的な取り扱いを
進めるにあたって、その基盤になったのは、ミサが奉献だという
ことの再確認であった。論争の中心は、いかにしてミサが奉献に
なるかという問題だった。
 その際、教会の奉献は問題にならなかった。スコートゥス学派
が教会の奉献を一人歩きさせ、それがプロテスタントのひんしゅ
くを買ったからである。
 注目を集めたのは、キリストが十字架上でささげたのと同じ奉
献がどうしてミサに現れるのか、という問題であった。この点、
ギリシア教父と同じである。

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        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+トリエント公会議の仕事(3)
 教令は、典礼慣習上のいくつかの点を弁明している。すなわち
ミサ典文、諸儀式の慣例、祭司だけが聖体を拝領するミサの個人
挙式も可能であること、ラテン語の使用である。
 ミサに関する教令が「総合の傑作」と呼ばれてきたのは適切で
ある。そこで念頭においておくべきことは、守りの姿勢をとらざ
るをえなかったがために強調点が決まったこと、また当時の神学
方法で表現せざるをえなかったことである。学説について決定を
下すことも、思索を掘り下げることも、体系をまとめあげること
も、承知のうえで先送りにした。感謝の祭儀に関する教義全体の
まとまった体系を打ち出すなど、それどころではなかった。
 対抗宗教改革のために、現存や拝領やミサといった形で、やむ
なく個別に扱わざるをえなかったのである。公会議の目標は、混
乱した秩序を回復するという実践的な仕事をすることにあった。
1570年にピウス五世教皇のもとで『ローマ・ミサ典礼書』の
改訂版が刊行されたのも、同じ趣旨である。そしてこれが、それ
以降の西方諸国の教会全体の規範となる。

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        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+トリエント公会議の仕事(2)
 1562年に出た公会議の最終教令では、改革者の攻撃した論
点が、より正確に説明されている。すなわち、キリスト教は最後
の晩餐で唯一のささげものをささげ、それでもって御自分の十字
架上の奉献を絶えず現在のものにするように、それを教会に託し
たのである。この奉献は、贖罪の献げ物でもある。十字架上で血
を流して自分をささげたのと同じキリストが、今そこで血を流さ
ずにささげられるのだから。そこで奉献される供えもの(ホステ
ィア)は同じもの、奉献する祭司も同じである。ささげ方が異な
るだけである。
 だから教令の第2章が示すとおり、この奉献は、十字架上の唯
一の奉献をいささかも損うものではない。ただその成果を、手に
届くようにするのである。だから、生ける者のためにも、死せる
者のためにも、ささげることができるわけである。

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