#第二部 ミサのこころ J.A.ユングマン
        第一章 救いをもたらしたキリストの奉献
           
+キリスト秘義
 主イエスの救いのしごとは、新約聖書では、いけにえ用語でよ
く語られている。しかもすでにキリスト自身が、「多くの人の罪
のゆるしのために流される」自分の血について語り(マタイ26
:28)、また自分は、多くの人の解放の代金として、自分の命
を犠牲にするために来たのだと明言している(マルコ10:45)。
 初代教会でも、救いをもたらす主の苦難は、いけにえと呼ばれ
た。「キリストが、わたしたちの過越の小羊としてほふられた」
(鵯コリント5:7)。キリストは「ご自分の血によって」教会
を手に入れた(20:28)。教会は、「傷や汚れのない小羊の
ようなキリストの血」であがなわれたのである(鵯ペトロ1:
18−19)。小羊の血とは、明らかにいけにえのことである。
 他ならぬキリスト自身が、ささげる人であった。神の僕につい
て述べられていたように、罪なき者が、他の人のために、苦しみ
と死を自発的に受けとめた(イザヤ53:2ー10)。それは、い
けにえの真髄であった。それは最大の愛を込めて、余すところな
く自分をささげることであった。
    #第二部 ミサのこころ J.A.ユングマン
        第一章 救いをもたらしたキリストの奉献
           
+キリスト秘義
 キリスト教の福音の核心には、神であり人である方の苦しみと
死がある。それが救いをもたらす。その頂点は復活である。神の
子が人となり、新しいアダムとなって、新しい神の民を神のもと
に導こうとした。しかし人の子がその一員となった人間は、罪に
まみれ、神に反逆してみずから不幸を招き、際限なく災難に陥る
人間だった。そこで彼は悲惨な人間の罪のどん底に下り、神の小
羊として、世の罪を取り除こうとしたのである。だから彼の人生
は、死を前にして自分をささげることに、その頂点をきわめたの
である。
 イエスの全生涯は、世界の救いを、ひいてはカルバリーでの救
いをもたらす苦難と死を目ざしていた。人と成ったことが、すで
にこの特徴を帯びていた(ヘブライ10:7)。その受肉は、自分
を無にすること(ケノーシス)であり、その全生涯とともに、十
字架上で完成するものである(フィリピ2:7−8)。神の定めた
キリストの使命は、単に新しい教えを説く人や新しい生き方の模
範となることではなく、ずたずたになった神と人間の絆を回復す
ることにあった。
 イエスは世界に入ったとき、預言者や王の任務のみならず、祭
司の任務を帯びていた。神人であるキリストは、本質的に神の前
では人類の頭である。その神の前で、人類を代表する者である。
すなわち祭司なのである。こうしてイエスは神の意志に無私の献
身によって、神への人類の従順を回復し、人間を神の愛に迎え入
れたのである。
    #第一部 ミサの歴史 J.A.ユングマン
        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+現代の動き(2)
 神学の新しい動向は、ミサの実践に置ける、教会の新しい動き
に呼応するものである。それは、1909年にベルギーで典礼運
動が起こって以来、神学的考察を先取りしてきた。この運動は、
見たというよりは予感された理想像に根ざしている。すなわち、
時代がおおいに必要としているもの、掘り出されていない宝が、
ミサ典礼の中に用意されている。それと同時に、感謝の祭儀を祝
う教会とは、信者の具体的な集いのことなのだ、こういった点に
気づいたことから、あの運動は始まったのである。
 ここから、ミサを信者に分かるものにし、会衆を行動的参加に
招く必要が生じた。ピウス十二世の回章「メディアトル・デイ」
は、初めてこの努力を公式に認めたものである。
 第二バチカン公会議でも、同じ認識が「聖なる教父たちによる
本来の基準に則して」、ミサを徹底的に刷新する決定につながっ
たのである(「典礼憲章」50条)。その際、会衆とともにささげ
るミサのことを、いつも見つめながら進められた。この原則が受
けいれられた結果、先に1967年に刷新が実施されたとき、典
礼の言葉が全面的に会衆の言語に変わり、ミサの心臓部つまり典
文にも、刷新がおよぶこととなったのである。そこで1968年
に、ローマ典文の他に三つの奉献文が新たに加えられた。新しい
式文は、奉献文の本来の構想と考え方を、より明確に徹底したも
のである。教義に関しては、公会議で何も新しいことを言う必要
はなかった。
    #第一部 ミサの歴史 J.A.ユングマン
        第八章 トリエント公会議から現代まで
           
+現代の動き
 イエスの制定したものの理解において、プロテスタント諸教派
にも重要な変化が生じた。これはたびたび礼拝の式文にも現われ
た。すなわち、本文の奉献や叙唱、エピクレシス(聖霊の照明)、
アナムネーシス(記念)といった本質的な諸要素はもとより、聖
餐制定句によって聖別された供えものの「呈示」まで、再び行な
われるようになったのである。
 感謝の祭儀に関するカトリックの教えは、今こそ、しかも直に
伝統を十分把握し直して、思索を深める仕事に取り組めるように
なった。まさに唯一の奉献行為の現在化という思想は、実際の奉
献、しかもキリストの捧げた奉献そのものが、ミサの中にあると
いうことを、明らかにするものでなければならなかった。そして
この奉献が教会の中に現在化されるなら、キリストの体である教
会は、この行為において頭と一緒になる。だから奉献をするとき
教会はひとりで独力で行動しているわけではないことも、よく分
かるはずである。
 それと同時に、奉献という行為そのものを中心にして、そこか
らキリストの現存を引き出すような、感謝の祭儀の総合的な理解
がうまれたのである。そこで新しい教義表現は、まさに伝統に忠
実だったからこそ、信仰の秘儀全体を一つのものとしてとらえる
ような、新しい一貫したイメージを打ち出したのである。

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