1月1日

      地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、
      神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)

 聖書の中には「註解者の十字架」といわれる難解な箇所が少な
くない。創世記冒頭の三節はその最初のものである。創世記1章
が見つめている世界、それは光のない闇の世界、「地を見渡せば
見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある
人々には逃れるすべがない。」(イザヤ8:22-23)という世界で
ある。
 従来2節は、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」にも
かかわらず、神の霊は母鳥が雛を抱くように覆うという、愛と恩
恵の表象と解されてきた。しかし近年、2節後半の「神の霊が水
の面を動いていた」を「強風が吹きまくる」と解する訳がある。
「霊」が「風」と同語であることは知られている。「神」はヒブ
ル語には形容詞の最上級がないので、ときとしてその機能を果た
す一例と解せられる。
 創世記1章の記者が見つめている世界、それは、強風が間断な
く吹き荒れる底知れぬ淵を、暗闇が覆う混沌として世界なのであ
る。そしてこの闇は、「かつて太古にあった現実について述べて
いるだけではなく、常に存在する可能性についても述べている。
全被造物の背後には無の深淵が横たわっている。そして全被造物
は無の深淵に沈む可能性がある」とフォン・ラートは語る。
 この全被造物の背後に横たわる無の深淵は、ハイデッガーが分
析した「日常性」と重なる。人びとはなぜ日常の世界に埋没して
いるのか。なぜおしゃべりをし、生活のあれこれを配慮し、そし
て日々の習慣の軌道を安易にすべってゆくのか。それは日常性と
いう板子一枚下に、おそろしい「無」、すなわち死が隠れている
からだ。この「無」から目をそらすために、人は優しく手を差し
伸べる「日常の世界」をつくり出し、そこで安易に眠る、と。
 北森嘉蔵は『神の痛みの神学』でこう語る。「我々の生きてい
る今日、最も優勢なる意味において『死の時代』であり『痛みの
時代』である。私の眼には、今日世界は大空の下に横たわってい
るのではなく、痛みの下に横たわっているものとして映ずる。」
 私たちは今、安易な眠りから覚めるべきときがきているのでは
ないか。「夜はふけ、日が近づいている。」(ロマ13:12)。

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