#空しさの終わり
第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、
第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
(創世記2:2)
+ヨハネ福音書に、旅の疲れを覚えた主イエスが、ヤコブの井戸
辺で休みを取る話があります。そこに、一人のサマリアの女が
水を汲みにやって来ます。井戸から上がってきた女に主イエス
は声をかけます。「あなたの手にあるその器から、水を飲ませ
てください」と。
+女は驚いて、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、
どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか。」と問い返しま
す。すると主イエスはこう言われました。「この水を飲む者は
だれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決し
て渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠
の命に至る水がわき出る。」
+これを聞くと女は、「主よ、渇くことがないように、また、こ
こにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と声
を限りに叫んだのです。私は、この女の叫びに、烈しく胸を締
め付けられます。女の渇きの深さにたじろぐばかりです。この
叫びは、この女にとって水汲みが絶えがたく辛い仕事であった
ことを物語っています。
+それは肉体的に苛酷であったというのではありません。み言葉
は、女が水を汲みに来たのは「正午頃」であったと記します。
当時、水汲みは女性の仕事でした。しかしそれは朝早くとか、
夕方近くに行われるものでした。太陽が照りつける真昼にする
仕事ではないのです。しかしこの女は太陽がじりじりと照りつ
ける真昼に、水を汲みにやって来たのです。なぜでしょうか。
他の女たちと顔を合わせたくなかったからです。この女にとっ
て、他の女たちの視線にさらされるよりは、真昼の太陽に身を
焼かれる方が楽だったのです。体の傷より魂の傷の方がはるか
に痛いのです。
+この後、主イエスと女の対話は礼拝の問題に移ります。わたし
はここに天地創造の完成、第七日目の秘儀があると考えていま
す。人間存在の渇き、存在の空しさは、真の神礼拝によってし
か癒されないのです。
+この物語は、水瓶をそこに残したまま町へ行き、人々の視線に
身をさらした女を描いて終わります。人目を避けるように生き
てきたこの人が、今や町中の人々の視線に自らをさらしたので
す。「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられた
のを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現
した。」(ヨハネ19:28)。この女の渇きに止刀を刺すた
めに、主イエスは十字架に上げられたのです。
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