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 「主の晩餐なくして我等は生きながらえることができない」(アビシネの殉教者たちの告白)。

 修道院運動は教父時代とその後の正教会の宣教の伝統を救ったもう一つの要素であった。しかし、究極的には、今日まで正教における本来的な宣教的な次元を表現しているものは、何千もの普通の信徒の単純な信仰であった。・・・ハルナックは、彼らの持っている「愛と慈善の福音」を細心の注意を払って記述したが、そこには、最初の三世紀の一般のキリスト者の生活に関する比類なきみごとな証言が提供されている。われわれは、教会の宣教にとって、この次元の意義深さを決して知りつくすことはできないであろう。彼らが、ゆっくりとそして確実に帝国全体を変貌させてしまったことは疑い得ない。(デイヴィッド・ボッシュ)

はじめに)
 ユングマンは、最新のプロテスタント聖餐式文からも「奉献」の概念が注意深く省かれていると語る。わたしたち秋田楢山教会が毎週聖餐式を行なう礼拝改革を行なう過程でもっとも苦労したのが〈奉献〉をいかに位置づけるかであった。試行錯誤を繰り返し、結果的に1〜3世紀の、キリスト教が迫害下にあった時代の聖餐理解に辿り着いた。
 わたしは「奉献」に聖餐の生命線があると考えている。その「奉献」概念を呪術として捨て去ったとき、プロテスタントは聖餐の生命線を失ったのである。その結果の「倫理教」化_「神を信じないさまざまな教会が、今日、倫理教という名称で世界に普及しつつある・・・」ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』_である。日本基督教団には、未受洗者陪餐問題がある。「奉献」概念を欠いた聖餐式文の当然の帰結がそこにある。

第一部 ミサの歴史
 第2章 初代教会からヒッポリュトスまで

 状況は一変した。最後の晩餐でイエスの死の奉献を告げ知らせ、また先取りしていたものが、今や記念されるべきものとなった。最後の晩餐で主ご自身がしたことを、今度は弟子たちが、命じられたとおり主の名において行なうことになった。使徒たちは、命じられたことをどのように果たしたのか。また主の制定されたものを、若い教会の生活にどう組み込み、その行為をどう受けとめたのか。そのことについては、新約聖書にはわずかな手がかりが散在するのみである。
 ここで重大な決定が必要になった。どういう枠内で、どんなおりに、どんな参加者の仲間で、新しいものを祝えばよいか。さらに、委任された責任者がリードするのか、それとも対等な仲間で囲む食卓なのか。だがその問題に対して、新約聖書には不充分な答えしか出ていない。はっきりしていることは、ただ一つ。若い教会は最初から、驚くべき確信をもって広範にやり方を統一し、等しく真に受けて祭儀をしていたことである。

パンを裂くこと
 『使徒言行録』は、初代教会でパンを裂くことが行なわれたと証言している(20:7、2:42、46)。また『ディダケー(十二使徒の教え)』(14:1)もイグナティオス(若年の頃にキリスト教に帰依し、98年頃アンティオキア教会の第2代目司教になった。ローマで殉教する旅の途中、最も初期のキリスト教神学の例と見なされている一連の手紙を書き送った。これは教会論、サクラメント論、主教論を含んでいる)の『エフェソへの手紙』(20:2)でも、パン裂きは、感謝の祭儀のことを表している。この専門用語は、ユダヤ教の(家父がパンを裂いて)食事を始める儀式を表わすのに使われた(注。食卓を共にする一人一人が、裂かれたパンの一片を食べることによって、主人がこのパンの裂かれる前に唱えた神への賛美にあずかり、この宗教的行為がそこに共同体を現前させた)。この儀式が、感謝の祭儀で取り上げられて、その価値を高められたのである。そこで「パンを裂く」という言葉は、外部の目から覆い隠すには、絶好の名称だということで、急速に広まった(使徒2:42)。
 弟子たちは「喜びと真心をもって」いっしょに食事をしたのである(2:46)。この食事で、勝利を収めた復活者を知り、彼との交わりをおぼえる。彼らは知っていた。自分たちが集まるとき、とりわけ感謝の祭儀を祝うときに、あの方が自分たちの真ん中にいるのだと(マタイ18:20)、彼らは知っていた。在世中、そしてまた復活後も、弟子たちが楽しんだ主との食卓の交わりが、ここで続いているのだと。彼らは、主が譬えで語られた救い主の祝宴の始まりと神秘的な先取りを、自分たちの聖餐に見たのである。だからまた初代教会は、集会で「マラナ・タ、主よ来てください!」と叫ぶ。目には見えないが、キリストが彼らの食卓の主人なのである。その手ずから一同は、彼の肉と血をいただくのである。

夕食を一緒にする
 初期のころ、感謝の祭儀と食事が一緒に行なわれていたことは、疑問の余地がない。第一コリント11章17−34節は、50年代のコリント教会の件で、このことを証言している。それが最後の晩餐で主が制定した、パンと杯の儀式に集約されて行く。
 主の晩餐の儀式は元の形を七段階で構成する。①主はパンを取り、②感謝をささげ、③それを裂き、④言葉を唱えながら配り、それから⑤杯を取り、⑥感謝をささげ、⑦弟子に渡す。やがて四段階の儀式が出来た。①パンとぶどう酒の準備、②感謝の祈り、③パンを裂くこと、④交わり。以来、これがミサの構成の輪郭をなす。
 食事の切り離しは2世紀には完了した。それと同時に、主が制定したものの表わし方にも、全体の捉え方にとっても、重大な決断が下された。広間から食卓が姿を消し、パンとぶどう酒を置く台が一つ残った。

新しい時と新しい名称
 食事をしないことで、主の記念を始める時間も、変更された。世間では、日曜日も労働の日であり、そこで朝の時間になった。それには利点がある。つまり、週の初めの日の朝早く起こった、主の復活の記念なのである。聖書朗読で感謝の祭儀を始めるやり方が、ユダヤ教のシナゴーグから取り入れられた。この時点から前面に出て来る名称が「エウカリスチア」、感謝の祈りである。パンとぶどう酒の形で聖体を拝領するところに、食事の要素が残ってはいる。しかしこのとき以来、根本的な形を決定するのは、パンとぶどう酒の上に唱えられる、感謝の祈りである。感謝の祈りには、自分のことを記念するようにとの主の命令、また最後の晩餐での主の模範が、盛り込まれた。キリストの犠牲による救いと解放に感謝を表わす祈りの要点は、使徒書のいくつかの節に出てくる(コロサイ1:12−22、フィリピ2:5−11、Ⅰテモテ3:16、Ⅰペトロ3:18−21)。

奉献と理解される
 奉献は、祭儀の特徴を表わしている。『ディダケー』(14:1)に、「主の日には一同が集まって、ささげものが清いものになるようにまず罪を告白してから、パンを裂き、感謝の祭儀をおこないなさい」とある(参 マラキ1:11、14)。この文書は、感謝の祭儀が日曜日に祝われたことを確認する他に、ここで奉献思想を確立している点で注目に値する。同時に、誤解のないようにもしている。奉献は清いものでなければならない、つまり心をこめて行なうものである。だからこそ開祭の時に罪を告白して心を清める(参 Ⅰペトロ2:5。ここでペトロが描いているのは、単なる典礼の進め方などではなく、むしろ絶えずキリストの奉献に統合されていくキリスト教生活のことである)。

ごく初期の伝統的スタイル
 伝統的な感謝の祭儀を見ると、個々のやり方の多くは、初代教会に由来する要素が、伝えられてきたものであることが分かる。その構成員の多くは、ユダヤ人キリスト者たちであった。のちの諸典礼に見られる独特の祈りのスタイルは、ここからのものである。祈りは、「主はみなさんと共に」とか、「平和がみなさんと共に」という挨拶で始まる。どちらも聖書的ヘブライ的な挨拶の仕方である。「また司祭(あなたの霊)と共に」という伝統的な返事も同様である。次に「祈りましょう」、「感謝をささげましょう」といった祈りへの招きが続く。
 キリスト教典礼は、以上のものやそれ以外の伝統的なものを、エルサレムの典礼習慣から取り入れた。彼らは旧約聖書を受け継ぎ、詩編唱和の習慣を続けた。そして教会はそれに、ギリシア的風土の中で、生き生きと典礼を発展させていった。

ローマ司教クレメンス 『コリント教会への手紙』(93〜97年頃)
 教会には、キリストから使徒を通じて任命された聖職者がいる。彼らの一番大切な仕事は、神聖に「供えものをささげる」ことである。別の面からこの供えものに光が当たる。キリストが「わたしたちのささげものの大祭司」と呼ばれていることである。それは、わたしたちのささげものである。つまり教会の奉献なのである。それをささげることこそ、キリストから任命された者がまず果たすべき任務である。

アンティオキア司教イグナティオス『書簡集』(猛獣の餌食との死刑宣告を受け、護送される途中で書いた。35年頃−107)
 この書簡には、感謝の祭儀のことが何度も出てくる。それが教会生活のなかで、信者の意識のなかで、いかに重要な位置を占めていたかがうかがわれる。「祭壇(つまり祭壇の置かれた場所)から遠ざかる者は、神のパンに飢えるのである。」キリスト者の中には、エウカリスチアや共同の祈りから遠ざかる者がいた。彼らは聖別されたパンが、生身の体で苦しみ復活したキリストの肉だとは、信じなかった(仮現論者)。このパンは「不死の霊薬」である。

殉教者ユスティノスの報告 『第一護教論』(150年頃)
 これは、感謝の祭儀について具体的に描写した最初のものである。しかも二重の報告になっている。洗礼式の結びにおいて行なわれる祭儀と、主日のミサに関するものである。これは、広く旅して回った著者が、全教会で一般に確立され、使われている式文を説明しようとしているものであるがゆえに重要である。
・洗礼を授けてから、兄弟と呼ばれる人々のもとに連れてゆき、・・・それから兄弟たちの司会者に、パンと水の混ざったぶどう酒の杯が運ばれる。・・・司会者が感謝の祈りを終え、全会衆が応唱したのち、「助祭」と呼ばれる人々がエウカリスチアとなったパンとぶどう酒と水を出席者全員にくばり、欠席者にも運んでいく。
・わたしたちの教えることを真実のものと信じ、罪の赦しと新たに生まれるための洗礼を受けており、キリストが教えられたように生活している者でなければ、感謝の典礼に参加することは許されない。
・太陽の日といわれる日に、・・・みなひとつの所に集まり、時間のゆるす限り、使徒の記録、あるいは預言者の書物を読む。朗読者が読み終わると、司会者が、これらの美しい教えを学ぶように勧め、励ます話をする。それから、みな一緒に立って祈る。祈りが終わると、パントぶどう酒と水が運ばれる。司会者は、祈りと感謝とを、自分に与えられた力によってささげ、みなはアーメンと答える。こうしてエウカリスチアとなったものが、一人一人に配られ、欠席者にも助祭によって配られる。

ユスティノスの報告に現れるミサの諸要素
 たくさんの細かい点が、その後のミサの歴史でくり返され、大部分こんにちまで存続しているのを、ここではじめて知る。たとえば日曜日は集会の日であり、感謝の祭儀を最優先すべき日である。ここでは、旧約新約の聖書朗読からなる典礼を先にする。つづいて司会者が説教し、共同祈願をおこなう。この朗読の典礼は、ユスティノスのころは、まだ感謝の儀式に固く結びついてはいなかった。
 司会者に手渡される供えものには、パンとぶどう酒のほかに水もあった。それはユダヤ教の伝統に由来する習慣である。イエスの時代のパレスチナでは、ぶどう酒を水で割るのが普通だった。感謝の祈りを唱える時の「司会者」の役割が、はっきり描かれている。感謝の的は「わたしたちが、これらのものに値するとみなされた」ことである。つまり、キリストの恵みに招かれたということである。
 さらに重要なのは、感謝の表明が憩いの祈りではないことである。言い換えると、パンと杯は、感謝を表明するとき、神に向かう動きの中に持ち込まれる。それらは神にささげられる。ユスティノスは何度も、マラキの預言(「彼らが主に献げ物を、正しくささげるものとなるため」3:3)が感謝の祭儀において成就したと述べ、またすぐ続いてエウカリスチアを奉献と呼ぶ。
 
エイレナイオス(130−202年)
 ユスティノスが主に感謝の祭儀の典礼形態を描写しているのに対して、エイレナイオスは感謝の祭儀の本質を本格的に省察している。それはグノーシス主義者を相手にしたものである。新しい契約が古い契約と矛盾するどころか、その完成なのだということを、打ち出そうとしている。同じことが奉献についても言える。キリストは弟子たちに指示を与えている。「被造物の初穂を神にささげなさい。神が必要となさるからではなく、弟子たちが実を結ばなかったり、感謝しなかったりすることのないために。そこで被造物で出来たパンを取り、感謝して仰せになった。『これはわたしのからだである。』同じように・・・杯を取り、自分の血と言明され、新しい契約の新しい奉献であると教えられた。これを教会は使徒から授かり、全世界で神にささげているのである。」この後に続いてマラキⅠ:10−11が引用されている。
 エイレナイオスは、新約のささげものは、グノーシス主義者が軽蔑する、大地の恵みで出来たものであることを強調する(楢山式文「沈黙の祈り」「ここに供えるパンとぶどう酒は、あなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちの糧となるものです。」)。「清く汚れのない心で」ささげねばならない。「ささげものが人間を清めるのではない。ささげる人の良心が、捧げ物を聖化するのである。」わたしたちは「清い気持ちで、ごまかしのない信仰によって、揺るがぬ希望をもって、愛に燃えて」神に供え物をささげ、「わたしたちの創り主である神に感謝していることを表わす」べきである。贈り物を受けとってもらえることは、贈る人の名誉になる。神がわたしたちの善意を受けとってくださるのも、恩恵でわたしたちに報いてくださるためである。

ローマのヒッポリュトス(170?—235年)
 『使徒伝承』(2000年の教会史の中で、最も初期の典礼を中心とする資料。第二バチカン公会議に大きな影響を与えた著作)に、最初の完全な形の奉献文がのっている。もっとも教えられるところの多いのは、制定叙述とくり返すようにとの命令のあとに続く、短い言葉である。「ですから、わたしたちはその死と復活を記念し、・・・このパンと杯をあなたにささげます。」(楢山の式文にも)。ここでささげることが、再び感謝に結ばれているのが特徴である。しかもわざわざ、〔明らかに聖職者と会衆を含めた〕わたしたちを「み前に立って祭司として仕えるにふさわしい者としてくださったあなたに感謝します」と言う。

要約
 ここで、感謝を表わすことと奉献に関する、この時点までの証言を振り返ってまとめ、もっと正確に見ておくことにしよう。1世紀末以来、主が最後の晩餐で始めたもの、また教会が行なってきたものを、「エウカリスチア」(感謝の祭儀)という名でよんでいた。

物的ないけにえよりも大切な感謝
 いずれにせよ、感謝の言葉と気持ちが強調された。「救い主はパンを裂いて手わたす前に、われわれがふさわしく食べられるように、感謝の祈りを唱えたのである」(アレクサンドリアのクレメンス)。
 この感謝の表明に、キリスト教の礼拝を独自なものにした精神的要因が浮彫りにされている。これが、異教やユダヤ教のいけにえというものから、きわめて鮮明に区別しようとしたものである。彼ら(異教徒やユダヤ教)にとって、どういう物をどう扱って儀式を正確に執り行うかが重要であった。だが、キリスト教のエウカリスチア(感謝の祭儀)では、まったく控えめになっている。当時の護教教父たちは、キリスト者にはおよそいけにえなどない、と言う。「神はいけにえも寄付も目に見えるような物も、皆目必要とはしない」(アテナイのアリスティデース)。
 「代々伝わる伝承によれば、神にふさわしい唯一の礼拝とは、・・・荘厳な祈りと賛美の言葉で」神に感謝することである(ユスティノス)。
 「最高のいけにえとは、われわれが天を広げた方を認め、・・・清い手を神に上げることである」(アテーナゴラース)。
 過激な言葉ではあるが、「われわれには、神殿も祭壇もない。・・・わたしが使うために神がお与えくださった物を、どうして犠牲にして供え、神ご自身の贈り物を返したりしてよかろうか。それでは恩知らずになる。本物のいけにえ(奉献)とは、そんなものではなく、善い魂、清い心なのである・・・」(ディオグネトスへの手紙)。
 こういう言い方は、感謝の祭儀が奉献と呼ばれていたことを示す。
 異教や旧約のいけにえとの相違を主張する間は、人の心のなせるわざとしての感謝の表明を打ち出さざるを得なかった。キリスト教集会には感謝の言葉以上のものがある。そこで司教の出番となる。彼がパンとぶどう酒に祈りを唱えると、供え物自体がエウカリスチアになり、祈りとともに神のもとに運び上げられるのである。ここには、洗練された奉献思想の核となる物がある。マラキ書の清いささげものについての言葉が裏付けとなる。
 エイレナイオスは、供えものの物的側面を、さかんに強調する。あまりにも精神主義一辺倒だったギリシア流グノーシス派に対しては、キリスト教的奉献が霊的のものだとわざわざ強調するまでもなく、かえって物的な被造物を守ることが先決だった。信者がパンとぶどう酒を祭壇に運んできたという、最初の報告が出て来るのが、この当時だということは偶然ではない。地の被造物が取り込まれるのを、外的な儀式でも、はっきりさせようとした結果、こんな形になったのである。
 こういう奉献理解にのめり込み過ぎると、教会の奉献ばかり考えるようになる。究極的には、キリストがささげた、またささげている奉献のことなのだということは、語られずじまいであった。教会の奉献は、救いをもたらす受難を思い起す記念から生まれるものである。このことが明瞭に表明されるのはヒッポリュトスが最初である。感謝の表明自体が、ただ神に向かう動きを表わす、そういう記念に他ならないのである。思い出すこと、またそれから生まれる動き。感謝することには、この双方(キリストの奉献と教会の奉献)が兼ね備わっている。
 2世紀全体を通じ、またその後も、奉献のことを展開してみると、エウカリスチアこそ、記念しながらささげること以外の何ものでもない。この時代の(他の点では3世紀も含めた)ミサ奉献の本質は、「わたしたちは、イエスの受難と栄光を記念して、清い奉献を栄光の神にささげる」にある。


第3章 3世紀

全般の要旨
 アフリカのテルトゥリアーヌスとキュプリアーヌスは、3世紀を代表する重要人物である。この二人の場合、見方がはっきり変わっていることにすぐ気づく。「エウカリスチア」という言葉も考え方も、もはや大勢を占めてはいない。

テルトゥリアーヌス(160?—220?。キリスト論、三位一体論を系統的に論じた最初の人物。晩年、異端モンタノス派に加わり、列聖されていない。)
 用語 テルトゥリアーヌスは、エウカリスチアという言葉こそ用いているが、それは儀式のことではなく、儀式のもたらす賜物を表わすためにのみ使う。儀式の全課程を表わすものとして決まった名称はなく、よく用いられているのが、「ささげること」(オフェレ)と「奉納」(オブラチオ)である。「奉献」(サクリフィチウム)も出てくる。「オラチオ」という語も、感謝の祭儀を意味する。

 人 感謝の祭儀は奉献である。祭儀は、神の祭壇を囲む共同体が参加して行なわれる。そこで働くのが、聖別された奉仕者である。奉献が行なわれるのは、祭司の手を通してである。司式する者の手から、聖体の秘跡をいただく。それと同時にテルトゥリアーヌス自身は、すべての信者の祭司としての品位を力説している。

 時 祭儀は、朝早いうちに行なわれる。曜日は日曜日、水曜日、金曜日が明記されている。また故人の命日にも行なわれていた。

 会食による交わり 感謝の祭儀で、出席者がそろって聖体を拝領するのは、当然のことである。テルトゥリアーヌスは、聖なる供えものに最高の尊敬を払うよう強調し、それがもたらす祝福にみちた効果を力説している。

奉献としての理解
 テルトゥリアーヌスは「オフェレ」(ささげること)や「オブラチオ」(奉納)という表現で、祭儀全体をさしている。典礼の中で、信者は供えものを持参する。この行為が物を軽蔑するグノーシス派に対抗し、重視され、キリストの制定された聖なる儀式に組み入れられて一つの儀式となった。
 他方で、キリスト教の奉献が地上の供えものではないことを、いささかも疑ってはいない。異教のおびただしいいけにえに、断固反対する。
 「オラチオ」は感謝の祭儀と同義として使われる。この祈りに「奉献」、つまり新しい奉献、キリスト者の奉献が含まれていることをテルトゥリアーヌスは表わしている。
 十字架上の死を記念するために、キリストは最後の晩餐でぶどう酒を聖別した。教会の中で奉献する祭司も、究極的にはキリストである。罪から解放された人が、神殿でささげるべきいけにえ。それは、父の完全な祭司であるイエス・キリストを通して、教会のなかでささげられる祈りと感謝なのである。

キプリアヌス(3世紀初頭—258年。迫害の時に棄教したクリスチャンたちの教会への復帰問題で、最初、厳しい態度で臨んだが、のちに軟化させ、適当な悔悛ののち教会に復帰することを許した。251年)
奉献理解
 当時すでに、「オフェレ」(ささげる)と「オブラチオ」(奉納)が、「サクリフィチウム」(奉献)のように、感謝の祭儀の名称となって定着している。それは異教や旧約のいけにえには使われず、「主の奉献」、父である神へのキリストの奉献を表わす用語である。

祭司はキリスト
 キリストは祭司である。父である神の大祭司であり、自分をささげものとして父に奉献し、これを彼の記念として行なうように命じたのである。
 本当の祭司はキリストであるから、感謝の祭儀は「主の奉献」とか、短く「主のもの」とも呼ばれている。しかし注目すべきことは、十字架の奉献との関連が、ほとんど見られないことである。感謝の祭儀が奉献と呼ばれるのは、十字架上の奉献を現在化するからではない(プロテスタントは主の晩餐を「記念」の概念でとられ、そこに十字架の現在化と、十字架が指向した終末の現在化を見る)。キリストが、あの時も今も、十字架上の死の奉献を見つめながら、最後の晩餐で奉献し、今も祭司を通じて奉献するからである。この意味で奉献のたびに、キリストの受難に言及するのである。「主の受難こそ、われわれのささげるものなのである。」

民をつつむ奉献
 この奉献に、キリストの民も加えられる。水がぶどう酒に混ぜ合わされるからである。キリストが苦難によってわたしたちの罪をかぶったように、この奉献において、会衆もキリストに結ばれる。それも、水がぶどう酒から切っても切れなくなるように。こうして民は、ささげられる供えものに含められる。
 しかし民にも、積極的に果たすべき役割がある。祭儀は共同体の祭りであり、信ずる者の集会を前提とする。迫害でくじけてしまった背教者は、和解がすむまで、立ち入りが許されない。
 奉献への参加は、その場に出席している人に限られることではない。兄弟と恩人のことを「奉献と祈りのなかで」思い出す。このように想起することが大切にされると確信している。ささげものは、当人がそれにふさわしくない者にはなっていないとう条件で、故人のためにもささげられ、そこで名前が挙げられる。

「シリアのディダスカリア」の証言(3世紀前半の教会規律、ギリシア語)
 この著作は、キリスト者のささげものは物的供物とは異なる祈りなのだ、と強調する感謝の祭儀の見方を、再び打ち出している。新約の法を旧約の律法と対比させ、「かつてのいけにえの代わりに、いまは祈りと願いと感謝をささげる」と述べる。
 一同は主の日に教会にやって来るように、キリストの体のメンバーが一人も欠席したりしないように、と勧められている。
 さらに、旧約聖書のように不浄になることを心配せずに、「墓地にも」集まって、「聖書を朗読し・・・神によみされる聖体をささげ・・・眠りについた者のためにささげる」ように、とある。このように、感謝の祭儀によって死者を記念することについては、これと同じ理解が、北アフリカと同様にシリア北部にもあった。


アウグスチヌスの母モニカの臨終の言葉
 「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心をわずらわさないでおくれ。ただ一つ、お願いがある。どこにいようと

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