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           故K.K.葬儀説教

聖 書 創世記1章1〜5節
    ヨハネによる福音書1章1〜9節
讃美歌 320、(聖歌)206、191

 K.K.さんは1920年(大正9)2月6日、H.I.さんの長女として生を受けられました。高等女学校を卒業されたのが昭和12年、中国との戦争が勃発した年でした。二年後の昭和14年に女子師範を卒業され、南秋田郡の大久保小学校に赴任されました。同僚のI.K.さんと結婚されたのが昭和16年3月、長女K.さんが生まれた12月に、わたしたちの国は太平洋戦争に突入しました。長男H.さんが生れたのが昭和20年2月、それを機にK.さんは職を辞されました。
 その後二人のお子さんに恵まれ、家族6人肩を寄せ合い、敗戦後の混乱の中を生きてきました。この家族が、「もはや戦後ではない」との掛け声のもと、経済成長の坂を走り出した矢先、昭和31年7月、次男J.君を自宅前の道路で、交通事故で失ったのです。J.君を失った痛みが癒えぬ30年代半ば、今度は夫I.さんが病に倒れました。県南の朝舞にあった秋南病院に入院していたとき、秋南教会の牧師瀬谷先生から、夫婦同時に洗礼を受けられました。その後もI.さんの闘病は続き、昭和44年2月I.さんは主のみもとに召されました。時代は安保闘争で激しく揺れていました。
 ご家族の手になるK.さんの略歴を読ませていただき、あの時代を生きた人たちが皆そうであったように、時代に翻弄された小さな家族の物語を見る思いでした。K.さんの思いでを綴った文章の中にこんな一文がありました。「教師の道を目指しましたが、農家の嫁とは両立できず教師を続けることができなかったことは心残りだったと思います。」わたしは、K.さんはその生涯の終わりに、献体という形で、若い医師を育てるという教師の職を全うされたのだと考えています。

 K.さんは今から二年前、2013年5月26日(日)、地上における93年の生涯を終えて主のみもとに召されました。献体を希望しておられたので、葬儀を行なうことなく遺体は大学病院へ移されました。普通、献体をしている場合でも葬儀を行なうのが一般的ですが、K.さんの場合は一切葬りの儀式はなされませんでした。
 まるで十字架で死んだ主イエスが、安息日が迫っているという理由で、ユダヤ人たちの埋葬の習慣に従わず、あわただしく墓に葬られたように、K.さんのご遺体は、教会の典礼によらず、大学病院へ搬送されたのです。そして二年の月日を経て、ご遺体が遺族のもとに帰ってきたこの時に、ご遺族の希望により、キリストにある兄弟姉妹たちの祈りの中で、葬儀が行なわれることになりました。結果、戦後70年の年に、時の為政者が、憲法学者が違憲とする集団的自衛権を可決した年に、K.さんの死と葬儀を行なうことになりました。神のフシギを思います。

 K.さんが主のみもとに召されて二年の月日が経ちました。この時間という歴史の炉は、愛する者を失った悲しみ、痛みを浄化してくれたのではないでしょうか。それでも、改めてご遺体を前にしたご遺族にとりましては、あの時の悲しみ、痛みが今、ここでのこととして甦ってくるのではないでしょうか。この葬儀を通して、上からの慰めを得られるよう祈ります。
 この葬儀で共に聞きたい御言は、創世記1章の劈頭の言葉です。このみ言葉は今月5日の礼拝で取り上げた箇所です。「朝の光の中へ」と題して話をしました。説教のために準備をしていたとき、ふと、K.さんの葬儀でもこの個所をとり上げたいとの願いが起こされました。ご遺族に、K.さんはこのみ言葉が語る「朝の光の中へ」迎え入れられたことをお伝えしたいとの思いからです。礼拝で話したことを、できるだけ要約してお話ししたいと思います。わたしたちもいつか、その時、「朝の光の中へ」迎え入れられたいのです。
 
 「初めに、神は天地を創造された」と語り出すこの言葉は、紀元前6世紀、イスラエルが捕囚期を迎えた時代に書かれたことが分っています。戦争に敗れ、四百年余続いた王制は廃され、イスラエルは国家なき民となったのです。しかし、こうした政治形態の壊滅以上に深い崩壊をもたらしたのは、神殿が灰燼に帰し、神の現臨の場を失ったことでした。その現実を預言者ハバククは「神の死」と表現しました。また預言者エゼキエルは、民衆の声として次のように語りました。「われわれの骨は枯れ、望みは尽き、絶え果てる」と。そこには、もはや神にさえ望み得ない絶望があったのです。それは言葉の最も厳密な意味で死を意味します。
 そうした状況の中でこの人は、「初めに、神は」と語り出したのです。1節から3節に語られた一続きの文言は、その一つ一つの言葉の中に測り知れないほど豊富な神学的関連性が内包されていると言った人がいます。それはある日一日で『書かれた』ものではないのです。そうではなく、何百年もかけて成長しつつ、慎重に豊かさを加えてきた教理なのです。どういうことかと言えば、詩篇12篇の詩人が言うように、「主のことばは・・・地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のよう」(7)であるということです。つまり聖書は、人間の苦しみの炉で練り清められてきた言葉なのです。だからこそ、2千年、3千年という時の隔たりを越えて聖書は、今を生きる私たちの苦悩にふれて語ってくれるのです。否、語るだけではなく希望を与えてくれるのです。
 祭司記者が目の前に見ている世界、それは2節、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」に凝縮されています。最近の解釈では、「神の霊が水の面を〜」は、2節前半と同様、混沌の描写であるとするのが一般的です。つまり「強風(=神の霊)が水面を吹き荒れていた」のです。この訳によれば、祭司記者が見つめている世界は、強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界であったということになります。K.さんが教師をめざした青春時代、この国は出口なしの戦争にありました。また純君を交通事故で亡くしたとき、御主人を癌で亡くしたとき、K.さんが見た世界はこれではなかったでしょうか。強風が間断なく荒れ狂う底知れぬ深みを暗闇がおおう、混沌とした荒涼世界です。
 紀元前6世紀、イスラエルは捕囚期を迎えていました。何もかも失った限界状況の中で祭司記者は、神は「光あれ」と言われたと、人間を覆い尽くす虚無に、信仰の闘いを挑んだのです。 混沌という地の水平面に、神の言葉、「光あれ」が垂直面から交わり、創造が開始されたのです。「混沌」に光が射したのです。この光は、太陽や月や星の光とは全く異質な光です。太陽の光は影を造りますが、この光には影はないのです。この光に照らされた者は光とするのです。「あなたがたは世の光である」と言われるようにです。
 この光について最もすぐれた注解は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り出すヨハネ福音書1章1節以下のロゴス(言)賛歌です。御言にこうあります。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・・その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである!」この「光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」のです。この光は、痛みの下に横たわる世界に、死の相の下に横たわる世界に命を与える光なのです。
 祭司記者は、この光の創造を次のように結びます。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。」わたしは光の創造で語られたこの結びの言葉、「夕べがあり、朝があった」に、祭司記者の祈りがこめられているように思います。この人は、カオスの闇、混沌の生き残りである夜の後に、太陽や月や星の自然光とは全く違う光の朝があると語るのです。
 この光が差し込む朝ごとに、神の最初の創造の業の一部がくり返されると言った人がいます。この朝の光の中に迎え入れられる経験について語られたパウロの言葉を聞いて、終わりたいと思います。パウロは言います。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と。

 K.K.さんの93年の生涯にあったのもこれではないでしょうか。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」この生き様はどこからくるのでしょうか。パウロは言います。「『闇から光が輝きでよ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」神が無の深淵を覆う混沌に向かって発せられた言葉、「光あれ」の光とは、「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光」なのです。K.さんはこの光によって光を見て、満ち足りてその生涯を終えられたのです。
 それを物語るのにキヨヱさんの愛唱歌があります。ご家族にK.さんの愛唱歌をお尋ねしたら、母は『聖歌』206番が好きでしたとのお答えでした。ちょっと意外でした。『聖歌』は日本の教会ではどちらかというと福音派系の教会で歌われる歌集です。わたしが洗礼を受けた福音派の教会では、聖餐式は年に数回しか行なわれませんでした。歌う回数はそう多くはないのです。そうであるのにK.さんは、聖餐式で歌われる歌を愛唱歌とされたのです。マザー・テレサの言葉に、「ミサこそわたしを支える霊的な糧です。これなしに、一日たりと、いや一時間たりとも、この生活を続けることはできないでしょう」というのがあります。K.さんもそのように生きて来られたのではないでしょうか。
 終わりに、聖餐の恵みを語ったアウグスティヌスの母モニカの臨終の言葉を聞いて式辞を結びたいと思います。モニカは郷里に帰る旅の途中で臨終を迎えます。息子たちはせめて母を郷里の地に葬りたいと願います。その時モニカはこう言ったのです。「このからだはどこにでも好きなところに葬っておくれ。そんなことに心をわずらわせないでおくれ。ただ一つ、お願いがある。どこにいようとも、主の祭壇のもとで私を思い出しておくれ。」
 K.さんは晩年、体調が優れず、礼拝生活を続けることはできませんでした。多くの教会員が、K.さんの姿が礼拝堂にないことを寂しく思っていました。しかし、今は、主の晩餐で共に神をほめ讃える礼拝の交わりの中にあるのです。キリストを記念する主の晩餐で、天上のもの、地上のもの、地下のものが神をほめ讃える賛美の交わりの中に、K.K.さんもいるのです。確かにK.さんは、永遠の朝の光の中へ迎え入れられたのです。

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