1月9日
    
    人と妻は二人とも裸であったが、
    恥ずかしがりはしなかった。
                 (創世記2:25)
 「バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女は誰でも一生に一度はアプロディテの社内に坐って見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。・・・女たちの間を縫ってあらゆる方向に通ずる通路が綱で仕切ってあり、よそからきた男たちは、この通路をたどりながら女を物色するのである。・・・女は金を投げた最初の男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰るが、それからはどれほど大金を積んでも、その女を自由にすることはできない。」(ヘロドトス『歴史』)。
 「乳と蜜の流れる地」として選民イスラエルに与えられた約束の地は、実は先住民のこのような異教的風俗の浸潤していた地であり、エリヤ以来の預言者たちが生命を賭して戦わねばならなかったのは、このカナンの淫蕩なバアル宗教であった。それは穀物と家畜の豊産を祝い祈願する豊饒の祭りであり、その聖所に奉仕する男女の聖婚がいて、祭そのものが強烈に性的色彩をおび、端的にいえば性の祭典であった。それは多産と新しい活力とが与えられると信じた一種の通過儀礼であり、決して性の頽廃の結果ではない。極めて真剣な宗教的営みである。しかしそれは聖書の世界ではない。
 創世記2−3章は、1章とともにキリスト教人間学の要ともいうべき重要な章で、古来より多くの論争をひき起こしてきた箇所である。知恵の木と蛇の誘惑が、性的なものを暗示するかどうかは問題であるが、その結果が性の目覚めであり、裸体の羞恥であったことは示唆的である。
 人はいつ、裸の自分を「恥ずかしい」と感じたのか。それは、神の言いつけに背き、取って食べてはならないと言われた木の実を取って食べた時からである。聖書は、罪を犯した男と女の最初の反応が「羞恥」であったと語る。「二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3:7)のである。
 ともかく堕罪以前には、男と女は子供のように裸を恥じなかった。そこには生物学的な意味での性はあっても、主体的な性の意識はなく、何の汚れもなかった。ただ澄みきった諧調と和楽があるのみであった。ところが、蛇の誘惑に負けて木の実を食べた瞬間、彼らは俄然として性に目覚めたのである。神の顔をさけて木陰から、「裸だったので恐れて身をかくしました」(10)と答える彼らに、「裸であることを誰が知らせたのだ」(11)と神は追求する。責任は女に、女から蛇にと転嫁される。結果は呪いと罰−まず蛇、次に女、それから男に対して−蛇との宿怨、出産の苦痛、女の男への依存、男の絶えざる生活の苦労、ついには死すべき運命。深いえぐりで、厳しい生の現実が浮き彫りにされる。
 神によって造られた性がなぜ恥ずべきものとなり、祝福さるべき出産がなぜ死の苦痛を伴うのか。女はなぜ男を慕い、男はなぜ死ぬまで働かねばならないのか。聖書は、それらの理由を人間の最初の罪に帰する。そしてその後の人間の歴史は罪の歴史であり、性の調和と人間の完成を目的とする結婚もまた、罪の中に成立すると見る。
そして今、私たちの周りから急速に「羞恥心」が消えつつある。裸が氾濫している。世界はエデンの園に近づいたのだろうか。そうではない。罪の感覚を失っているのである。その結果、世界は破壊と創造の根源であるカオスに一歩近づいている。大地の希望−十字架のキリストが輝きでる日は、そう遠くないのではないか。

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