# 「社会の中のキリスト者」
+「キリスト教的−社会的」とか「福音的−社会的」とか「宗教
的−社会的」とかいう様々な結びつきは、手軽に用意できる。
しかし、われわれが当然のこととして思い切りよく記すそのよ
うなハイフンが、危険な短絡でないかどうかという問題は、大
いに考えてみなければならない。神奉仕が人間奉仕であるべき
だとか、人間奉仕になるべきだとかいう逆説は、非常に気の利
いたものだが、しかしわれわれの性急な人間奉仕が(たとえそ
れが極めて純粋な愛の名で行われても)、そのような認識によ
って神奉仕になるかどうかは、また別の問題である。‥‥この
世のためのみ言葉の種を蒔く人になるというあの課題――モー
セやイザヤやエレミヤのような人々もあのように畏れを覚えた
あの課題に対して、われわれも先ず何よりも〈畏れを覚える〉
べきではないであろうか。(K.バルト)
+バルトの「畏れ」、それはまたパウロの「畏れ」でもあった。
パウロは言う、「たといわたしたちであろうと、天からの御使
であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあな
たがたに宣べ伝えるなら、その人は呪われるべきである」(ガ
ラテヤ1:8)。パウロが宣べ伝えた福音とは何か。「キリス
トは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の
悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のため
にささげられた」(1:4)ことである。
+啓蒙主義の洗礼を受けたことで、キリスト者一般の注意が横に
それてしまった、といわれる。社会的同情へと、それて行って
しまったのである。彼らは言う、「罪の意識が去ったのではな
く、その形を変えているだけだ。わたしたちは、社会的罪に対
して、より敏感であるために、個人的罪に対して、多少は鈍感
になっているだけであり、個人の悔い改めの代わりに、公けの
良心的罪責を負っているのだ」と。
+公けの良心的罪責は、神の国の最も重要な義にあずかる赦しを
求めないで、改良や改革を追求する。改良や改革は、キリスト
教を成立させているものではない。キリスト教は贖いの宗教な
のである。
+「またもや新しくキリストを裏切っているのではないかという
ことに、われわれは、やはり畏れを覚えるのではないだろう
か。」(K.バルト)
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