#喜びの源泉

+先日、地区の教師会が行われた。教会創立120周年を迎えた
 二つの教会の、それぞれの歴史を学んだ。そして話はいつしか
 どこの教会にもいる「厄介な信徒」に及んだ(勿論教師会だか
 ら「厄介な牧師」については触れなかった)。有効な手だては
 なく、すべての牧師がお手上げの状態であった。そんな折、ボ
 ンヘッファーの言葉が過ぎった。

+神は、私が他者に対してこうであってほしいと望むその願いど
 おりに、他者を創造したのではないのである。まさにそれゆえ
 にこそ、今まで私が重荷や迷惑に感じていた他者が、今や、神
 の創造の自由の中で、私にとっての喜びの源泉となるのである

+神は、私が自分にとってよいように思える「かたち」、つまり
 「私自身のかたち」に従って他者を形づくることを望まず、む
 しろ私から離れた神の自由の中で、「神のかたち」に他者を造
 ったのである。

+「神のかたち」を他者の中にどのように見いだしたらよいのか
 ということを、私は決して前もって知ることはできない。なぜ
 なら、それはそのたびごとに全く新しく神の自由な創造によっ
 てのみ基礎づけられるものだからである。

+それは私にとって、奇妙な、およそ神らしくないものに見える
 かもしれない。しかし神が、他者を自分の「み子のかたち」に
 すなわち「十字架にかけられた方のかたち」に創造したのであ
 り、この「かたち」は、私がそれを正しく認識するまでは、私
 にとって奇妙な、神らしくもないものであり続けるのである。
                  (『キリストに従う』)

+それにしてもマザー・テレサの凄さを改めて思う。マザーはこ
 んなことを言っている。「ミサでは、パンの外形のもとにイエ
 スをいただきますが、スラム街では、衰弱した体に、捨てられ
 た子どもたちのなかに、キリストを見、キリストに触れるので
 す。」
   (『マザー・テレサのことば〜神さまへのおくりもの』)

+マザー・テレサもボンヘッファーも同じことを言っている。常
 に新しく繰り返しキリストの十字架の下に立ち続けること。
 「これなしに、一日たりと、いや一時間たりとも、この生活を
 続けることはできない」(マザー)のである。

+出会うすべての人のなかにキリストを見出したいと思う。私た
 ちに賜った聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれること
 を祈ろう(ロマ5:5)。これなしに、他者が喜びの源泉にな
 ることはないのである。

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