#秋田のヴィアドロ・ロサ
+来年、2008年に教会創立120周年を迎える一つの記念と
して、秋田のキリシタンの足跡を辿る企画が持ちあがった。ホ
ームページで資料に当たっていたら、北海道の「福島町アウト
ドア」にこんな記事があった。
【キリシタン、地の果てへの逃亡】
+日本のキリシタンにとって蝦夷(北海道)は逃亡の地の果てで
あった。これらのキリシタンが徳川幕府の迫害をさけて東北、
蝦夷地へと移動しはじめたのは、1612年頃のことである。
+幕府はキリシタン禁教令を発し、京都の教会堂を破壊し、二年
後の1614年には一層大がかりな追放が始まった。再び全国に禁
教令を出し、教会を焼きイエズス宣言教師をマカオに追放、ま
た日本人信徒 400余人がマニラ、マカオへと送られた。その中
にはキリシタン大名として有名な高山右近などもいた。
+その後も幕府のキリシタン弾圧、火刑や斬首などがくりひろげ
られ、信徒は比較的取締りのゆるい東北へと移動しはじめた。
「蝦夷地は迫害がなくて働きやすい」という話が、キリシタン
の間で広がり佐竹藩(秋田)や津軽藩での弾圧が厳しくなるに
つれて彼らは少しずつ蝦夷地へと渡りはじめた。
+ほとんどの信徒は、一種の”治外法権”地帯だった鉱山へと入
り込んでいき、北の地で敬虔な祈りをささげながら、砂金堀り
の労働者となっていた。キリシタンの金堀人たちは、もちろん
講的な結びつき(信仰共同体)の強いことは変わりがなかった。
+生と死を共にするという無言の盟約が、やがて後に述べる千軒
金山の大惨劇となってあらわれるのである。
【蝦夷地に入った二人の宣教師】
+悲しい信仰の羊たち!1618年から1622年の間、シシリア島(ナ
ポリ王国)のアンジェリス神父が 2回、ポルトガルのカルワー
ニュ神父が2回、蝦夷の信徒たちを訪れた。
+アンジェリス神父は商人に変装して関所をこえたが、カルワー
ニュ神父はそのために必要な商品を持ち合わせなかったので鉱
夫に変装し、金堀のグループに加えてもらい、厳しい個人的な
検査をさけて蝦夷地に渡った。蝦夷キリシタンたちの慰問はも
とより、アイヌ人布教の可能性をさぐること、地理を調査して
蝦夷からシナへの北方ルートを探るためであった。信者たちは
わざわざ日本本土を離れて彼らに会いにきたのを知って、歓喜
のあまりに涙を流して神父を迎えた。
+その後、アンジェリス神父は1623年に江戸で火攻めにより、カ
ルワーニュ神父は1624年に仙台で氷攻めにより、息絶えた。蝦
夷キリシタンにとって忘れることのできない二人の神父が、再
び海峡を越えることはなくなった。
【千軒岳の殉教】
+1637年、島原の乱が起きた。この反乱は、幕府の鎖国とキリシ
タン弾圧の徹底化に決定的な役割をしたと言うことができる。
松前藩主は、これまで幕府への報告には「領内にはキリシタン
はなし」としていたが、それではすまなくなった。
+1639年の夏。松前藩主公広は、数名の役人に、 300名の兵士を
つけて千軒岳周辺へと捜索に向かわせた。まず大沢で男女50人
のキリシタンが処刑され、その後西部の石崎村に逃げていた 6
人が処刑された。さらに千軒金山へ追手が迫った。50人のキリ
シタンが礼拝堂に集まった。いまこそマルチリ(殉教)のとき
であった。
+山のキリシタン衆は、礼拝堂から運びだした十字架の前にひざ
まついた。祈りの声が一つ一つ消えていった。兵士たちの前で
音をたてて首が落ちた。千軒岳で殉教した 106人のキリシタン
はその生涯も、出身地も、はっきりとわからない。1959年(昭
和34年)から 7月になると巡礼が行われるようになった。函館
カトリック教徒たちによって現在もこの巡礼は続き、ミサの聖
歌が夏山にひびいているのである。
+また、1961年(昭和36年)には、これまでの粗末な木の枝の十
字架にかえて、大きな木の十字架が藩所跡に立てられた。エゾ
キリシタン 106名の殉教は、こうして永遠に追憶されることに
なったのである。
+キリスト教の歴史は殉教者たちの血の上に築かれた、と言われ
る。キリシタンが流した血の祈りに触れ、日本伝道の新たな歴
史を刻みたいと思う。
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