聖なる俗

    あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、…
    地上の氏族はすべて、
    あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。
                   (創世記28:14)

 ヤコブ、父と兄を欺き祝福を奪う者! この非道徳的な人間性
の茂みの中で問われているのは、祝福の継承者は誰か?というこ
とです。祝福の継承権を持っているのは双子の兄弟ヤコブとエサ
ウです。しかも祝福を継承するのは一人だけ!なのです。
 聖書は、兄エサウではなく、弟ヤコブが祝福の継承者であるこ
とを伝えています。ヤコブ物語の冒頭に、「その子供たちがまだ
生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟
に仕えるであろう』」とあります(創世記25:19−23)。
 ある人は、この記事がなければ、このあまりにも世俗的なヤコ
ブ物語を読む視点を失うと言います。「もしこれらすべての前に
神の託宣が置かれていなければ、…これをほどほどの内容の会話
以上に考えるものがいるであろうか」と。
 確かにそうです。「どのように技巧を凝らしてみたところで、
逃亡していく詐欺師がこのような恩恵の言葉を受けるというこの
不可解な事態を、ヤコブから、彼の人間性から、すなわち彼の中
にひょっとすると存在するかもしれない何らかの値打ちから、概
念的に理解できるようにすることは不可能である。」
 ヤコブとエサウとの間にはとりたてて言うほどの違いはないの
です。物語は、選ばれたのがなぜヤコブであってエサウではない
のかについては、ほとんど何も語っていないのです。それどころ
か、物語手は読者の思考をそのような方向に向けようとしていな
いのです。ただ一つはっきりしているのは、死を間近にした者の
祝福を欺き奪うという、なんとも人間臭い争いの中で神の計画は
その目標に達しているという事実です。語り手はこのことを確信
していたのであり、またそのことを示そうとしているのです。
 このことを踏まえるとき、問いそのものが変わるのです。つま
り重要なのは、何故エサウではなくヤコブが選ばれたかではなく
人間の最も胡散臭い行為すら捉えてその計画の中に組み入れ、役
立ててしまう神の主権的な行為において何が考えられているのか
ということです。この問いを突きつめた先に私たちは、ゴルゴダ
の十字架を見るのです。
           人間性の茂み

   彼は夢を見た。
   先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、
   神の御使いたちが上ったり下ったりしていた。
                   (創世記28:12)

 ヤコブの逃避行話は、創世記27章の、ヤコブが父イサクを欺
いて、兄エサウの祝福を奪い取ったという出来事と結びついてい
ます。死の時が間近に迫ったことを悟ったイサクは、長男エサウ
を祝福しようとしました。その前に、猟師であるエサウが獲った
獲物を是非食べたいと申し出たのです。
 その話を立ち聞きした母リベカは息子ヤコブに、兄エサウにな
りすまし、父の祝福を奪うようにと持ちかけたのです。そんなこ
とをしてもしバレでもしたら、祝福どころか呪いを受けることに
なる、とヤコブは拒みますが、もしばれたら、その時は責任をす
べて私が引き受ける、とのリベカの勢いに押されて、ヤコブは母
の言う通り父イサクを欺いて祝福を奪ってしまうのです。
 やがて狩りから獲物を携えて帰ってきたエサウは、弟ヤコブが
父イサクを欺いて祝福を奪ったことを知り、激怒し、弟に殺意を
抱くのです。
 兄の殺意を知ったリベカは、ヤコブを逃したのです。こうして
ヤコブは、兄から逃げて、逃げて、逃げて、とある場所に来た時
そこで一夜を過ごそうと、石を枕に身を横たえたのです。そして
ヤコブは「夢を見た」のです。
 それにしてもアブラハム物語の後にこうしたヤコブ物語を読む
と、おそらく多くの人が心理的な抵抗感を覚えるのではないでし
ょうか。ヤコブの生涯に私たちが見るのは、欺きであり、裏切り
であり、そして骨肉の争いなのです。こんなことを言った人がい
ます。「ヤコブ物語は総じて非精神的である。欺きの物語はそれ
でもなお祝福を問題としているのだが、読者は総じて話全体を読
むとき神とその御業とを非道徳的な人間性の茂みの中に見失って
しまう」と。
 21世紀を生き始めた私たちもまた、深い「人間性の茂み」の
中にいます。ヤコブは夢で神を見ました。私たちは何で神を見る
のでしょうか。十字架のキリストに!です。十字架のキリストは
人間性の茂みに現れた「隠れたる神」です。        
            希望の光

      すると、彼は夢を見た。…
      見よ、主が傍らに立って言われた。
      わたしは、あなたの父祖…の神、主である。
                (創世記28:12、13)

 私たちは20世紀の巨人、ジグムント・フロイトの名とともに
「夢」が人間の心を理解する重要な鍵であることを知りました。
フロイトは、人間の心には宇宙の広がりにも匹敵する広大な無意
識の世界が広がっていることを発見したのです。
 実は聖書も、「夢」に特別の意味を見ています。夢は、神がご
自分を顕す霊的な領域であるというのです。上掲の聖句はその一
つです。
 聖書学者たちは、夢は、神がご自分を顕す霊的な領域であるこ
とを発見したこの人を〈エロヒスト〉と呼んでいます。神を〈エ
ロヒーム〉と表記したことで、そう呼ばれるようになりました。
紀元前722年、超大国アッシリアによって北王国イスラエルが
滅ぼされた時代を生きた人です。国家の滅亡という壮絶な経験は
人々の心にどのような影を落としたのでしょうか。
 ある人が、旧約聖書は全体として崩壊期の思想である。崩壊の
時代〈の中で〉、真正面からそれ〈を〉取り上げ、それ〈につい
て〉神学的に考え、時代を生き抜いてきたのが旧約聖書である、
と言っています。だからこそ、「二千年、三千年という時間の隔
たりを肥えて、旧約聖書が時代の苦悩に触れて語ってくれるのは
いな語るだけでなく、希望の光を与えてくれるのはこのゆえであ
る」(左近淑「混沌への光」)と。
 学者たちにエロヒストと呼ばれるこの人は、国家の滅亡という
深い闇の中で、〈夢〉に神の顕現を見たのです。〈夢〉に神の聖
なる臨在を見たのです。夢の中に神が現れたと語るこの「ベテル
物語」は、同じように崩壊の時代を生きている私たちに、どのよ
うな「希望の光」を与えてくれるだろうか。しばらくヤコブの生
涯を追ってみたいと思う。
             希望の革命

    アブラハムが九十九歳になったとき、
    主はアブラハムに現れて言われた。
    「わたしは全能の神である。
    あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。」
                    (創世記17:1)

 心理学者フロムは言います。「希望は逆説的である。希望は受
動的に待つことでもなく、起こりえない状況を無理に起こそうと
する非現実的な態度でもない」と。
 13年間の神の沈黙は、アブラハムの希望の挫折を物語ってい
ます。しかし、13年間の神の沈黙にあるのはそれだけではあり
ません。神はアブラハムの希望が「うずくまった虎」のそれにな
るように、沈黙されたのです。フロムは言います。「もし人が希
望の挫折を経験しなかったら、どうして彼の希望が強固な押さえ
ることのできないものとなりうるか」と。真実の希望とは、もは
や希望がないことを知るところでなお望みつつ信じることなので
す。
 13年間の神の沈黙という「患難」が、アブラハムに忍耐を教
え、アブラハムを錬り清め、その希望を変革したのです。「希望
を持つということは、まだ生まれていないもののためにいつでも
準備ができているということであり、たとえ一生のうちに何も生
まれなかったとして、絶望的にならないということ」なのです。

 ある聖書学者は創世記17章1節から3節前半と、12章1節
から4節前半の類似性に注目しています。ということは、この記
事はアブラハムの生涯における「第二の召命」なのです。
 わたしはこの出来事に、大きな関心を持ちます。大きな関心と
は、アブラハムがうずくまった虎のような「希望」を手にしたの
は、99歳という高齢に達した時であるという事実です。希望の
革命は、血気盛んな若者に起こったのではなく、およそ100歳
のアブラハムに起こったのです。人間的にはもはや何の希望のな
い人に起こったのです。人間的にはもはや希望がない!そこでア
ブラハムは「うずくまった虎」のような希望を獲得したのです。
 創世記17章は、祭司記者の族長物語の叙述の中心をなすとい
われます。祭司記者は、もはや神にさえ望みえないという深い絶
望の中を生きていた人々です。彼らは、族長アブラハムの希望の
挫折を通して、神にある希望は絶望の中に生まれると語ったので
す。それは復活の希望と重なるのです。
 復活の希望とは、この世の現実の後に来る新しい現実ではなく
この世の現実をより大きな活動性の方向に変革するということで
す。人間と社会は、今の、この場での希望(十字架のキリスト)
によって刻々と復活するのです。
           希望の挫折

     見よ、主の言葉があった。
     「その者があなたの跡を継ぐのではなく、
     あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
                   (創世記15:4)

+神の召命を受けて、行き先も知らずにアブラハムが旅立ったの
 は75歳の時でした。そのアブラハムに息子イサクが生まれた
 のは100歳の時です。神の約束が実現するまでに、実に四半
 世紀の時が経過しているのです。
+この間、アブラハムは様々な試練に襲われました。その一つに
 アブラハムが神の召命に応えて、「生まれ故郷、父の家を離れ
 て」から10年目にあった出来事があります。アブラハムはす
 でに85歳、妻サラは75歳になっていました。
+小説『聖書』の中に、この時のサラの心情が次のように描かれ
 ています。「サライは時の経過を痛いほど意識した。神がその
 約束をしてから、彼女は毎月のように妊娠していないことに落
 胆してきたのだ。…サライの顔に花ひらいた若々しさは、とう
 に消えうせていた。彼女の中の女らしさも革のように干からび
 奇跡も消えてしまったようだった。…そこで彼女は自分の手で
 問題を解決することにした」と。
+その解決策とは、エジプトの女奴隷ハガルを側女としてアブラ
 ハムに与え、子を得るということでした。サラのこの決断には
 どれほどの苦悩と無念さがあったことか! しかし、サラはそ
 こに、一塁の望みを託したのです。そしてサラの計画は実現し
 たのです。
+しかしその結果は、最悪の事態となりました。このあと神は、
 アブラハムに13年間沈黙されたのです。神の約束を自らの手
 で実現しようとしたアブラハムの過ちがいかに深刻であったか
 は、この13年におよぶ神の沈黙が雄弁に語っています。
+それにしても、神の約束の実現に人間が手を貸すことの何が問
 題なのでしょうか。フロムは『希望の革命』の中でこんなこと
 を言っています。「希望は逆説的である。希望は受動的に待つ
 ことでもなく、起こりえない状況を無理に起こそうとする非現
 実的な態度でもない。希望はうずくまった虎のようなもので、
 跳びかかるべき瞬間がきた時に初めて跳びかかるのだ。…希望
 を持つということは、まだ生まれていないもののためにいつで
 も準備ができているということであり、たとえ一生のうちに何
 も生まれなかったとしても、絶望的にならないということであ
 る。」
+アブラハムにはこの「希望」が欠けていたのです。ゆえに、側
 女ハガルから跡継ぎを得るという、「起こりえない状況を無理
 に起こそうと」したのです。この希望の挫折の経験を経てアブ
 ラハムは「信仰の父」となるのです。
  希望を持つということは、まだ生まれていないもののために
  いつでも準備ができているということであり、
  たとえ一生のうちに何も生まれなかったとしても、
  絶望的にならないということである。

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