前代未聞の世界

    ハランは父のテラより先に…死んだ。
    サライは不妊の女で、子供ができなかった。
    テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ。
            (創世記11:28、30、32)

+1999年8月1日の朝日の朝刊第1面に、長崎に落とされた
 原爆は、機長の判断ミスや手違いが重なって燃料を浪費し、原
 爆を積んだままでは基地に戻ることができなくなり、「命令違
 反を承知でレーダーを使って原爆を落とさざるを得なかった」
 との、投下指揮官アシュワース退役中将と、副操縦士オリビ退
 役中佐のインタビュー記事を紹介していました。
+アシュワースはインタビューの中でこう言っています。「一万
 ボンド(約4,5トン)もある原爆を抱えて沖縄まで戻る燃料
 さえなかった。海に棄てるぐらいなら、少しでも打撃を与える
 場所に投下したかった。」
+また、副操縦士オリビは、投下直前の心境についてこう語って
 いました。「開発に20億ドルをかけた原爆を無駄にすれば作
 戦は大失敗とみなされ、軍法会議にかけられ投獄されるに違い
 ないと思った。」
+原爆投下の第一目標は「小倉の兵器工場」、第二目標が「長崎
 の市街地」であったそうです。アシュワースは小倉上空は雲に
 覆われ、約45分間にわたって接近を試みたが、目標が目視で
 きずに断念、自分自身の判断で目標を長崎に変更したが、長崎
 上空も雲に覆われ、目標地点を確認できなかった、と振り返っ
 ています。その場合、つまり「目視で投下できない場合は原爆
 を基地に持ち帰る」というのが当初の作戦計画でした。しかし
 目視できないまま、目標地点から3,5キロ離れて、原爆は投
 下されたのです。
+インタビューのどこにも、作戦上失敗だった原爆投下で犠牲に
 なった人々への哀悼の言葉は語られていませんでした。語られ
 たのは、「一万ポンドもある原爆を抱えて沖縄まで戻る燃料さ
 えなかった。海に棄てるぐらいなら、少しでも打撃を与えられ
 る場所に投下したかった」という言葉だけでした。
+わたしはこの記事を読みつつ、20世紀最大の知識人マルチン
 ・ハイデッガーが言い残した言葉を思い起こしました。ハイデ
 ッガーは自らの死後ならば発表してもよいとの約束で、ある週
 刊誌のインタビューに答えて、こんなことを言っています。
 「かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことが
 できるのです。」
+わたしはこの言葉に、20世紀を代表する一人の偉大な知性が
 現代文明をどう見ているかを痛いほど感じます。現代文明が、
 もうほとんど救うことができないものになっていること、もう
 少し強く言えば、現代文明の死の相を見つめている眼を見るの
 です。
+それは、原初史の結びに置かれている「テラの系図」(創世記
 11:27−32)が見つめている世界です。テラの系図は、
 「死」を枠組みとしてその中心に「不妊の女」を置くのです。
 聖書記者が、世界と人類のおかれている根本的状況に見ている
 のは、何も生み出し得ない死の世界なのです。
          知識を力とする世界
 
      主は彼らをそこから全地に散らされたので、
      彼らはこの町の建設をやめた。
                    (創世記11:8)

+世界と人類のおかれている根本的状況を記した創世記2章4節
 後半から11章、いわゆる「原初史」は、文明の緩やかな立ち
 上がりに、アルビン・トフラーが『パワーシフト』で展開した
 力の移行を見ているのです。額に汗して食糧を得るアダムの筋
 力、二人の妻を娶ったレメクの金力、そして天に届く塔を建設
 した知力です。
+もっとも、聖書とトフラーの見解との間には、決定的な違いが
 あります。トフラーは、知識が力を持つ世界について次のよう
 に語っているからです。「新しい文明は、我々の知的な協力に
 より、世界史の中で初めて、真に人間的な文明になりうるので
 ある」と。
+果たしてそうでしょうか。聖書は、人間の力が知識に到達した
 とき、そこに何を見たのでしょうか。み言葉にこうあります。
 「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このよ
 うなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨
 げることはできない。」(11:6)
+神が人間の知識を前にして震え上がっているのです。それは一
 見、涜神的な言葉です。あたかも神を冒涜するような表現でも
 って、知識を力まで高めた人間の、得体の知れない無気味さを
 言い表しているのです。
+利根川進はノーベル賞をもらう数年前、NHKのインタビュー
 に答えてこんなことを言っていました。たといある技術の延長
 線上に、マイナスの可能性があったとしても、それで研究をあ
 きらめたりしないのが人間である、と。この時、利根川の脳裏
 に何があったのだろうか。ヒロシマ・長崎ではないのか。「科
 学は現代のシンボルであるが、しかし精神的には結局無力であ
 る。」(ヤスパース『歴史の起源と目標』)。
+これが善悪を知る木の実を取って食べた人間の宿命、本性なの
 です。神はこの人間の本性を前にして震え上がったのです。
 「彼らはすでにこの事をしはじめた」と。そうです。「進歩の
 潮流はあまりにも速く、変革の波はあまりにも高い。力でもス
 ケールでもスピードでも、今度の変化は比べるものがない」の
 です。
+「知識を土台とする力」が支配する世界は、トフラーが予測し
 たように真に人間的な文明になりうるのでしょうか。実は、ト
 フラー自身、ある懸念を口にしています。「第三の波が来ると
 急速な工業化は新植民地主義や貧困からの解放を意味するのか
 それともかえって永遠の従属を意味するのかが、怪しくなって
 くる」と。
+21世紀初頭、カジノ経済がもたらした世界は格差社会、すな
 わち「永遠の隷属」ではないのか。人間はいつ、神のような知
 識をもつ世界に震えあがり、悔い改めるのだろうか。悔い改め
 なければ、人類の、そして人間の終焉は意外に近いかも知れな
 い。
           #力の移行

      さあ、天まで届く塔のある町を建て、
      有名になろう。
                (創世記11:4)

+アルビン・トフラーの著書に『パワーシフト』があります。ト
 フラーは、人類の歴史を三つの力の移行という視点で捉え直し
 たのです。三つの力とは、「筋力と富と知識」です。そして今
 近代に始まる産業社会を支えてきた富の力は、知識に移りつつ
 あるというのです。
+トフラーはこの著を著す10年前、1980年に『第三の波』
 という本を書いています。人類の歴史を押し寄せる波になぞら
 え、三つの波で区分したのです。第一の波は、一万年前に始ま
 る農業段階、第二の波は、四百年前に起こった産業段階、そし
 て第三の波は、今起こりつつある段階であると。
+そしてトフラーは、今起こりつつある第三の波の変化をこう語
 るのです。「新しい文明が我々の生活の中に生まれつつある。
 それは一万年前の農業の発明と共に起こった第一の波と同じほ
 ど重大な、産業革命と共に始まった地を揺るがすような第二の
 波と同じほど深い意味を持つ、事件である」と。しかも、その
 「進歩の潮流はあまりにも速く、変革の波はあまりにも高い。
 力でもスケールでもスピードでも、今度の変化は歴史上比べる
 ものがない」と。
+この第三の波の時代こそ、知識が力を持つ世界なのです。「知
 識はそれ自身が最良質の力の源となったばかりでなく、武力と
 富双方にとっての最重要な構成分子となった。言葉を変えれば
 知識は金力と筋力の従属物の地位から脱して、その二つの力の
 本質となった」のであると。つまり、知識を持つ者が、富と武
 力を支配する時代が来たのです。
+興味深いことに、実は、聖書も大方においてトフラーと同じ見
 方をしているのです。「原初史」といわれる創世記1章から1
 1章の記事がそれです。ここにあるのはまさに「力の移行」、
 パワーシフトなのです。
+まず第一のアダムのパワーは「土を耕す」力、筋力です。この
 アダムの後にくるのがレメクの時代です。「レメクは二人の妻
 を娶った。」(4:19)。ここにあるのは富の蓄積です。富
 の蓄積が二人の妻を娶ることを可能にしたのです。さらに言え
 ば、彼から生まれた子供の中にユバルという名の、「竪琴や笛
 を奏でる」人がいました。ユバルのように芸術を生業とする者
 の存在は、富の蓄積があって初めて可能となるのです。
+そして第三が、バベルの塔の時代です。ここでは天に届く塔の
 建設が語られています。その力は知識です。どれほど筋力があ
 り、またどれほど金力があっても、知識の結集なくして、天に
 届く塔の建設など不可能なのです。
+問題は、この知識が力を得たバベルの塔の時代は、「大空の下
 に横たわっているのではなく、痛みの下に横たわって」いる世
 界であるということです。同じことが現代についても言えるの
 ではないでしょうか。私たちが今、現に生きているこの時代は
 痛みのもとに横たわる世界ではないのか。
+世界は今、低きに下る知恵、十字架のキリストを必要としてい
 るのです。
        #痛みの下に横たわる世界

     民は一つで、みな同じ言葉である。
     彼らはすでにこの事をしはじめた。
     …もはや何事もとどめ得ないであろう。
              (創世記11:6)

+世界と人類のおかれている根本的状況を記した原初史(創世記
 2:4ロ−11章)の最後に置かれているのは「バベルの塔」
 の物語です。ここには、天にまで届く塔のある街を建てようと
 した人間の営みが神の逆鱗に触れ、人間は互いに言葉の通じな
 いものとなって、全地に散らされたことが記されています。
+私は、この全地に散らされたバベルの塔の物語を読みつつ、北
 森嘉蔵が『神の痛みの神学』の中に記した言葉を思い起こして
 いました。「我々の生きている今日は、最も優勢なる意味にお
 いて『死の時代』であり、『痛みの時代』である。私の眼には
 今日世界は、大空の下に横たわっているのではなく、痛みの下
 に横たわっているものとして映ずる。」
+ここで北森が言う「我々の生きている今日」とは、直接的には
 第二次世界大戦の頃です。同じことが現代についても言えるの
 ではないでしょうか。私たちが今、現に生きている世界もまた
 痛みの下に横たわっている世界ではないでしょうか。世界はあ
 の死の時代をくぐり抜け、大空の下に横たわっているのではな
 いのです。ベルリンの壁崩壊後、民族抗争の嵐が吹き荒れてい
 ます。一部の独裁者が富を独占し、大多数の民衆は飢えと病、
 死の恐怖という痛みの下に身を横たえているのです。
+バベルの塔以降、「世界は、大空の下に横たわっているのでは
 なく、痛みの下に横たわって」いたのではないでしょうか。あ
 る人はこの出来事の中に、「人間の恐るべき可能性に直面した
 ときの古代人の真の恐怖を感じる」(フォン・ラート)と言っ
 ています。
+バベルの塔の物語は不思議なほど透明に、人間のあらゆる文化
 活動とそれを支える基礎的な力が何であるかを示しています。
 つまり経済的な結びつきと、大きくなりたいという旺盛な欲望
 が、人間をして技術的に巨大な事業を試みさせたのです。
+聖書は、こうした文明の進歩、あるいは文化への緩やかな立ち
 上がりを単純に肯定しているわけではありません。むしろ、そ
 こに神ご自身に対する攻撃を見ているのです。人間は天に届く
 塔を建てることで神に近づいたのではなく、神からさらに離れ
 たのであると。そこに広がる世界は「互に言葉が通じない」
 (11:7)世界です。「個人は孤独に、おそらく歴史上のい
 かなる時よりも孤独」(ゾンバルト)となったのです。
             #新生

    神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。
    「産めよ、増えよ、地に満ちよ。…」
                   (創世記9:1、7)

+宗教学者M.エリアーデは『世界宗教史』の中で、「メソポタ
 ミアの宗教」に触れ、そこで伝承されている諸洪水物語を検証
 し、こんなことを言っています。多くの洪水物語は、春に芽生
 えた命が、夏の光の中で育ち、秋に実り、そして冬に枯れるよ
 うに、世界もまた、「生存し、生産するという単なる事実によ
 って、しだいに退化し、ついに衰亡する。」その「退化し、衰
 亡した」世界を新しく活力に満ちた世界に作り替えるために、
 神々は大洪水を起こした、と。
+つまり、イスラエル以前の多くの文明が継承してきた「洪水物
 語」は、退化し、衰えた世界を、原初の活力に満ちた世界に再
 創造することに重点があったというのです。換言すれば、そこ
 には洪水後の世界は、生まれたての生命のように汚れなき命に
 満ちているという理解、信仰があるのです。
+しかし、聖書が描く洪水後の世界は、創世記1章に描かれてい
 る地上の楽園では、もはやありません。ここには天地万物が、
 重大な混乱に陥り、腐敗してしまった事実が描かれているので
 す。それを象徴するのが、「肉食と殺人」です。
   動いている命ある者は、すべてあなたたちの食糧とするが
   よい。(9:3)
   あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を
   要求する。(9:5)
 洪水後の人間は、〈血の犠牲〉の上に成り立つ世界を生きる以
 外にないのです。
+しかし、ここにあるのはそれだけではありません。この死と敵
 意が支配する世界を、神の祝福が包み込んでいると語るのが冒
 頭に掲げた聖句、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」なのです。
 ここに並んでいる「祝福」の言葉は、創世記1章で、人間が
 〈神の像〉に造られたときに語られた言葉と同じです。換言す
 れば、死と敵意が支配する世界にあっても、神の像としての人
 間の在り方は失われていないのです(9:6)。
+何故人間は洪水の後に、古び衰える世界で、なお〈神の像〉を
 保持し得たのか。エフェソ書にこんな言葉があります。
   神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的
   な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神は
   わたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない
   者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
                      (1:3−4)
+このキリストにある神の選びこそ、洪水後の世界の「新生」で
 はないのか。つまり、人類の未来は、キリスト者の中で始まっ
 ているのです。キリスト者は、「未来に続いていく、流れの見
 える」存在なのです。

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