1月13日

    さて、アダムは妻エバを知った。
    彼女は身ごもってカインを産み、・・・
    その弟アベルを生んだ。
    アベルは羊を飼う者となり、
    カインは土を耕す者となった。 (創世記4:1、2)
 「ただ人間だけが、グロテスクなまでに不条理な死を発明することができたのだ、みずからの技術を通して、意味のあるものをまったく無意味にすることができたのだ」(R.J.リフトン)。
 創世記4章の編者によれば、神のようになろうとした人間の罪は、楽園喪失と人間の状況の変容をもたらしただけではない。ある意味で、人類を苦しめる諸悪の源となる。罪によって限定された人間像は、カイン物語においてさらに新しい特徴によって拡大されるのである。
 エバは「土を耕す」カインと、「羊飼い」のアベルを産んだ。兄弟が感謝の供物(カインは地の産物、アベルは羊の初子)を捧げたとき、ヤハウェはアベルの供物を受け入れるが、カインのそれは顧みなかった。怒ったカインは「弟アベルを襲って殺」す(4:8)。ヤハウェは言う。「今、お前は呪われる者となった。・・・土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる」(4:11−12)。 
 このエピソードには農耕民と牧畜民の対立、そして、後者への暗黙の弁護を読みとることができる。
 ところで、アベルという名が「羊飼い」を意味すれば、カインは「鍛冶師」を意味する。彼らの争いは、牧畜民社会での鍛冶師の、どっちつかずの地位を反映している。
 鍛冶師は軽蔑されるか尊敬されるかであったが、恐れられていることに変わりはなかった。鍛冶師は「火の匠」として遇され、恐るべき呪力をもっているとみなされた。いずれにしても、聖書の物語に収められている伝承は、牧畜・遊牧民の「素朴で純粋な」生活の理想化と、農耕民や都市住民の定住生活に対する抵抗を反映しているのである。その象徴的存在は、イスラエルがすでに定住生活をして久しい時代になってもなお半遊牧民的生活に固執し、純粋にヤハウェ信仰を継承したレカブ人である(エレミヤ書35章)。
 カイン物語は牧畜、農業というふうに別々に生活維持が分裂したことを示している。このような分裂は非常に深いものである。なぜなら異なる文化活動は異なる文化を前提とするからである。
 さらに広い重大な結果をもたらす文化史的変容についてカインの系統樹が報じている。耕作地を追われ、地上の放浪者となったカインは「町を建て」(4:17)そこに定住する。そして、彼の子孫のひとりトバル・カインは、「青銅や鉄でさまざまの道具を作る者」(4:22)の祖となる。共同生活という特別の形態をもつ都市の他に、牧者、楽師、鍛冶屋が登場する。最後の人たちは決定的に新しい何かを人間の文化史にもたらした。剣である。この発見が人間を直ちに悪へと誘う(4:22−24)。
 それゆえ、人類最初の殺人は、いわば技術と都市文明の象徴を具現する人間によって行なわれたことになる。技術はすべて、暗に「呪術」ではないかと疑われているのである。「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」(アンドレ・ヴァラニャック)。
           1月12日

    主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、
    彼に、自分がそこから取られた
    土を耕させることにされた。
                    (創世記3:23)
 「かくしてわれわれはいま、前代未聞の世界を前にしている。以前われわれの生存理由が支えられていた一切の価値が崩壊したか、さもなければ再検討されつつある。・・・われわれは、要するに人間というものは、普遍的諸関係の全体の中に自分が所属していると信じない限り、内面的にも、恐らくは表面的にさえも、生きることが不可能であることに気づいたのだ。」(エリー・フォール)
 いま、私たちの前には〈前代未聞の世界〉が横たわっている。 現代は技術の時代であり、それに随伴するあらゆる帰結は、数百万年のうちに人類が身につけた労働方式、生活形式、思惟様式、象徴、その他全てのものの存続を全く許さないのである。「現代人は最も深い意味で自己の依拠するものを見失っている。人類がその歴史を費やして獲得した貴重なものを、宗教も哲学も、その他もろもろの価値も、あらかた壊してしまったのである。」(稲村博)。
 すべては人間が「善悪の知識の木」(2:17)の実を取って食べたことから始まった。「善悪を知る」とは道徳な意味ではない。ヘブル語の用語法によれば、あらゆることの体験、あらゆる事柄、秘密の支配を意味する。つまり〈神のように〉知る、ということである。「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。』」(3:22a)。
 こうして人間は神に反抗し、服従の単純さから抜け出して得た知識で、二度と逆向きになりえない一つの道を歩き出したのである。神はエデンの園から人間を追放し、「ケルビムと、きらめく剣の炎」で「命の木」に至る道を守らせた。神のこの迅速な決断には、人間の恐るべき可能性に直面したときの真の古代人の恐怖を感じる。「今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」(3:22b)。
 神は、神のようになろうとした人間をエデンの園から追放する。その人間を待ち受けているのは、不思議に、エデンの園にあったときと同じ生活、つまり「土を耕す」(2:15、3:23)生活である。それはエデンの園を追われた人間の「普遍的諸関係の全体」である。もちろん、そのままではない。人の罪により、地は「呪われたもの」(3:17)となったからである。
 前代未聞の世界で人は土を耕す。エデンの園での生活をエデンの園の外でも続ける。そこに限界を超えた世界での在り方がある。
 私たちの前に横たわる前代未聞の世界とは、絶望的な貧困状態や資源の浪費、有害物質の蓄積、そして自然が破壊された世界である。それは技術改良や環境意識の高揚、環境政策の強化が見られるにもかかわらず、持続可能性の限界を超えてしまった世界である。現在の在り方では、人間に未来はない。もし未来というものがあるとすれば、それは後退的な、速度を弛めた、癒しの未来以外には考えられない(『限界を超えて』)。エデンの東の世界が持続可能であるには、生産性や技術以上のもの、つまり、成熟、憐れみの心、智慧といった要素が要求されるのである。聖書はこう語る。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4)。ここにだけエデンの東に生きる人間の未来がある。
           1月11日

    お前は顔に汗を流してパンを得る
    土に返るときまで。
    お前がそこから取られた土に。
                   (創世記3:19)
 人間の実存にとって基本的なことは実りをもたらす耕作地との関係である。何といってもそこから彼はとられたのであり(2:7)、したがってその産物と同じく彼の全存在の母体のような基盤である。しかしこの関係に一つの破れが生じた。人間と耕作地の言葉なき戦いに現われている疎外である。人間のゆえに大地は呪われる。そして大地は今や人間がその産物を苦労せずに収穫することを拒否するのである。(フォン・ラート)
 女が蛇の誘惑に落ちて「決して食べてはならない」と神に禁じられた「善悪の知識の木」から取って食べ、その結果、神のようになった人間の前に立ち現われたのは《呪われた世界》であった。
 人間と神との関係が崩れただけではない。一体であるべき男と女の関係(2:24)は主従の関係に堕し(3:16)、そればかりか動物や自然との関係も敵意に満ちたものとなった(3:15、17)。こうして人間は、労働は空しく、実りなく、あてのない放浪生活に明けくれ、絶えず死の恐怖に悩まされ、自由も生きがいもない隷属的生を送り、ついに「土に返る」のである。土に返る!とは、人間が地上で営むすべての営みが徒労に終わるということである。
 この人間と大地との関係は、大地がアベルの血を飲んだことで修服不能なまでに壊されてしまう(4:10以下)。この重大な呪いに変化をもたらしたのがノアである。ノアは「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」(5:29)との祈りの中で育まれるのである。
 洪水後ノアはぶどうを作り、「あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸」になる(9:21)。酒が裸の恥を麻痺させたのである。このノアの裸の恥を覆うのが息子セムとヤフェトである(9:23)。
 裸の恥が覆われるのは、これで三度目である。一度目は禁断の木の実を食べた男と女が自らの裸の恥を「いちじくの葉」で覆い(3:7)、二度目は神ご自身が、「皮の衣を作って」着せたのである(3:21)。神は禁忌を犯した男と女に「死」(2:17)ではなく、恥を覆われたのである。この覆いによって神は、人間の相互性に新しい可能性を与えたのである。つまり、人間は互いに裸の恥を覆いあう者になりうるという可能性である。
 酔いから醒めたノアは末息子ハムを、裸の恥を覆わなかったことで呪う(9:25)。ここに「食べてはならない」と言われた木の実を食べたことで踏み出した人間の、雪だるま式に拡大する罪の歴史に新たな要素が加わる。「呪われた人間」が、他者を「呪う」のである。
 この呪いのすべてをキリストは十字架で負われた(ガラテヤ3:13)。十字架だけに《呪い》からの解放がある。
           1月10日
    
    女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、
    目を引き付け、賢くなるように唆していた。
    女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡した
                 (創世記3:6)
 「我々の時代は、信じがたいほどの実現能力があるのを感じながら、何を実現すべきかが判らないのである。つまり、あらゆる事象を征服しながらも、自分自身の主人になれず、自分自身の豊かさの中で自己を失っているのだ。我々の時代はかつてないほど多くの手段、より多くの知識、より多くの手段を持ちながら、結果的には、歴史上もっとも不幸な時代として波間を漂っているのである。」(オルテガ)。
 この〈不幸の波間〉を漂う航海への艫綱を解いたのが、蛇の誘惑に落ちた女の物語なのである。その瞬間はまことに人間的なもの、とくに心理的なものとして、否、それどころか身体的現象としてさえ叙述される。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と。
 エデンの園には、四つの支流に分かれて大地の四つの区域を生命で潤す川が流れ、またアダムが守り、耕すことを定められた樹木が生えていた。原初の人間が住む楽園についての神話と、人間が近づきがたい「楽園的な」場所についての神話は、ユーフラテス河や地中海を越えた地域にも知られていた。すべての「楽園」がそうであるように、エデンも「世界の中心」に在り、四つの支流をもつ川がそこから流れている。
 楽園の真ん中には生命の木、善悪を知る木が立っている(2:9−10)。ヤハウェは人間に次のように命ずる。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16−17)。知識の実存的価値という、他の文化では知られていない観念がこの禁令から生じる。言い換えれば、知ることは人間の存在の構造を根本的に変えることができるのである。
 人間はその本質を神のほうに近づけることによって、また彼の被造物としての限界を越えて神のような生命を得ようと試みることによって、すなわち彼が神のようになろうとしたことによって、神に対する服従という素朴さから抜け出してしまったのである。そうすることで人間は神に近い楽園生活を棒にふる。彼に残ったのは、労苦の中の生活、疲労困憊させる謎に満ちた生活であり、悪の力との希望なき戦いに巻き込まれ、最後には無条件に死に陥るものとなる。
 「神が造られた野の生き物のうちで、最も賢い」(3:1)蛇は、女を誘惑することに成功する。この非常に神秘的な話は、無数の解釈を生んだ。その背景は裸の女神、奇跡の木、その番人の蛇というよく知られた神話的表象を想起させる。しかし、勝利を収め、生命の象徴(奇跡をもたらす果実、若返りの泉、宝物など)にあずかる英雄の代わりに、聖書の物語は、蛇の背信の無邪気な犠牲者アダムを置く。つまり、ギルガメシュの場合のような、「不死化」の失敗物語なのである。一度全知になり「神々」と同等になってしまえば、アダムは生命の木を見つけて不死身になれるからである。「主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知るものとなった。今や手を伸ばして、命の木からも実を取って食べ、永遠に生きるものとなる恐れがある。』」(3:22)。神は二人を楽園から追放し、命の木への道をケルビムと剣で守らせたのである。
 このアダムの不服従は−蛇の誘惑に落ちた女としてアダムの無意識にある闇−反逆天使の慢心、つまり、神のようになりたいという欲望をあらわしている。それは、自分の創造者に対する被造物が犯しうる最大の罪、「原罪」である。これはユダヤ教とキリスト教の神学にとって重要な基礎概念となる。このような「堕落」のヴィジョンは、神の全能と嫉み(「嫉み=熱情=聖」出エジプト20:5、ホセア11:9)を中心におく宗教にしか認めることができない。
         1月9日
    
    人と妻は二人とも裸であったが、
    恥ずかしがりはしなかった。
                 (創世記2:25)
 「バビロン人の風習の中で最も破廉恥なものは次の風習である。この国の女は誰でも一生に一度はアプロディテの社内に坐って見知らぬ男と交わらねばならぬことになっている。・・・女たちの間を縫ってあらゆる方向に通ずる通路が綱で仕切ってあり、よそからきた男たちは、この通路をたどりながら女を物色するのである。・・・女は金を投げた最初の男に従い、決して拒むことはない。男と交われば女は女神に対する奉仕を果たしたことになり家へ帰るが、それからはどれほど大金を積んでも、その女を自由にすることはできない。」(ヘロドトス『歴史』)。
 「乳と蜜の流れる地」として選民イスラエルに与えられた約束の地は、実は先住民のこのような異教的風俗の浸潤していた地であり、エリヤ以来の預言者たちが生命を賭して戦わねばならなかったのは、このカナンの淫蕩なバアル宗教であった。それは穀物と家畜の豊産を祝い祈願する豊饒の祭りであり、その聖所に奉仕する男女の聖婚がいて、祭そのものが強烈に性的色彩をおび、端的にいえば性の祭典であった。それは多産と新しい活力とが与えられると信じた一種の通過儀礼であり、決して性の頽廃の結果ではない。極めて真剣な宗教的営みである。しかしそれは聖書の世界ではない。
 創世記2−3章は、1章とともにキリスト教人間学の要ともいうべき重要な章で、古来より多くの論争をひき起こしてきた箇所である。知恵の木と蛇の誘惑が、性的なものを暗示するかどうかは問題であるが、その結果が性の目覚めであり、裸体の羞恥であったことは示唆的である。
 人はいつ、裸の自分を「恥ずかしい」と感じたのか。それは、神の言いつけに背き、取って食べてはならないと言われた木の実を取って食べた時からである。聖書は、罪を犯した男と女の最初の反応が「羞恥」であったと語る。「二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3:7)のである。
 ともかく堕罪以前には、男と女は子供のように裸を恥じなかった。そこには生物学的な意味での性はあっても、主体的な性の意識はなく、何の汚れもなかった。ただ澄みきった諧調と和楽があるのみであった。ところが、蛇の誘惑に負けて木の実を食べた瞬間、彼らは俄然として性に目覚めたのである。神の顔をさけて木陰から、「裸だったので恐れて身をかくしました」(10)と答える彼らに、「裸であることを誰が知らせたのだ」(11)と神は追求する。責任は女に、女から蛇にと転嫁される。結果は呪いと罰−まず蛇、次に女、それから男に対して−蛇との宿怨、出産の苦痛、女の男への依存、男の絶えざる生活の苦労、ついには死すべき運命。深いえぐりで、厳しい生の現実が浮き彫りにされる。
 神によって造られた性がなぜ恥ずべきものとなり、祝福さるべき出産がなぜ死の苦痛を伴うのか。女はなぜ男を慕い、男はなぜ死ぬまで働かねばならないのか。聖書は、それらの理由を人間の最初の罪に帰する。そしてその後の人間の歴史は罪の歴史であり、性の調和と人間の完成を目的とする結婚もまた、罪の中に成立すると見る。
そして今、私たちの周りから急速に「羞恥心」が消えつつある。裸が氾濫している。世界はエデンの園に近づいたのだろうか。そうではない。罪の感覚を失っているのである。その結果、世界は破壊と創造の根源であるカオスに一歩近づいている。大地の希望−十字架のキリストが輝きでる日は、そう遠くないのではないか。

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