1月8日

    人は言った。
    「ついに、これこそわたしの骨の骨
    わたしの肉の肉。
    これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
    まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
                   (創世記2:23)
 フロイトの予言――
 かつて、家族は唯一の共同体であった。しかし今、産業社会が力を増している。それは、家族よりも強力な存在となるであろう。家族は今、崩壊の途にある。まず、若者たちが家族の束縛から逃れようとしている。男たちも、家族以外の集団に依存しなければ生きてゆけなくなり、それだけ夫や父親としての任務から遠ざかりかねない。とり残された女たちは、その変化に不安と敵意を抱いている。やがて女たちも家庭の外に目を向け、妻として母親としての任務から遠ざかりかねなくなる。そのとき、家族はぬけがらとなるであろう――(小此木啓吾による『文化とその不安』の解説)
 女は「彼に合う助ける者(ふさわしい伴侶)」として男の骨の骨、肉の肉として「男から取られた」と聖書は語る。それは、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥の中に独りでいる男の孤独を癒すものがいなかったことによる。男は動物に名を与えた(19)。つまり主従の関係には存在の孤独を癒すものはないのである。
 女は男の深い眠りの間に、最後に造られた。女は、神が人間に与えようとするあらゆる善きもののうちで、最後の、最高の秘義に満ちた「美」なのである。この美だけが、存在の孤独を癒すのである。
男は瞬間的に女が完全な相手であることを感得し、挨拶する。ここに「男女の激しい衝動がどこからくるのか、それが子供において再び『肉体』となるまでは、休むことがないのはなぜかも明白なのである。」(フォン・ラート)。
 「ふさわしい」伴侶という言い方は、旧約では18節と20節の二回しか使われていない。直訳すれば「彼の前にあるごとき」で、「彼と同等である面と補い合う関係とを一句で表している」(左近淑)と言われる。
 ふさわしい助け手とは、人が土地を「耕す」(5)時の「手助け」ではない。男が生きてゆくために利用する〈手段・道具〉を意味するのではない。すぐれて〈人格的〉な関係である。決して主従の関係ではない。男が女を支配する(3:16)のは女が犯した罪の結果である。そして今、神の創造の秩序は崩壊の途にあると〈フロイトの予言〉は語る。現代の先進諸国において、男と女、夫と妻の関係は揺らいでいる。それは閉ざされた未来への不安に根ざしている。
 男女同権、男女共同参画が叫ばれて久しい。それは小さな家族の大きな崩壊を癒すのだろうか。「旧約のなかで、あるいは旧新約を通じて、いったい性はどれほどの比重をもち、どのような意義をになっているだろうか。・・・創世記の最初と黙示録の最後の数章を読んだだけでも、ある程度の予想はできる。つまり、神が人間を男と女につくった究極の意味は、『小羊の婚姻』(黙19以下)の秘義をさとらせるためではないだろうか。そうだとすれば、性の問題も結局は終末論的にみなければならない、ということになる。」(中沢洽樹)。
 性はわれわれにとって人類存続のため不可欠の生物学的条件であるばかりでなく、創造の秩序におけるその差異が、救済の秩序においては、生物学的基盤をこえて神と人間とを結ぶ神学的象徴となるのである。「小羊の婚姻」という希望が見いだされなければ(エフェソ5:21以下)、崩壊を続ける家族に再生はない。
           1月7日

    主なる神は言われた。
    「人が独りでいるのは良くない。
    彼に合う助ける者を造ろう。」  (創世記2:18)

 人間は個性を喪失したばかりではない。自然から引き離されて都会へと追いやられ、不気味な人種になり果てた。…とうぜん、人間と人間との情緒的な結びつきは失われ、「個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独」となり…仲間といっても、「砂山のなかの砂粒ほどの関係しか」(ゾンバルト)持つことができない。(森本哲郎『二十世紀の知的風景』)。
 森本のこの言葉は、20世紀という未曾有の世紀の一断片を見事に切りとっている。森本は1910年イギリスのリバプールに生まれた経済学者ボールディングの、こんな言葉を紹介している。「私が生まれた時期から後に人類の状態に起こった変化は、この時期に先立つ何千年間に起こった変化よりも大きいのである。」
 このように語るボールディングは、現代を人類史における第二の転換期と見る。第一の転換期は、今から五千年(ないし一万年)前に起こった「文明前社会」から「文明社会」への転換である。その「文明社会」がいまや幕を閉じ、人類は「文明後社会」へと転換しつつある、というのである。文明が崩壊したというのではない。文明がこれまでとはまったく異質なものへと転換しはじめている、というのである。
 同じように現代を人類史における偉大な転換期と見るヤスパースの次の言葉と重ねるとき、私たちが直面している時代の〈異質なもの〉の正体が見えて来る。「現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降であり、この際ただひとつのもの、すなわち科学と技術の産物が、もちろん過去のいっさいに比しても、ひとり偉大なのである。」(『歴史の起源と目標』)。
 過去二世紀間の科学技術のめざましい発展が、西洋人の精神にそれに比べられる発展をもたらさなかったことはよく知られている事実である。「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」とのアンドレ・ヴァラニャックの言葉は、ヒロシマ・長崎の名とともに長く人類の歴史に記憶されるであろう。言い換えれば、人類はヒロシマ・長崎を超えて、その先の地獄に踏み入ってはならないのである。
 ドイツの経済学者ゾンバルトは言う。「この一世紀半の間に西洋とアメリカに何が起こったかを理解しうるものはただ悪魔の力を信ずる人のみであろう。」(『独逸社会主義』)。彼が悪魔の力と呼んだのは、主イエスが神に並び立つ主人と言われた「富」(マタイ6:24)、すなわち「経済」である。「経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのため経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」というのである。
 問題はこうした人間世界の激変が人間そのものを変質させ、文化をねじまげてしまったところにある。「人間は個性を喪失ばかりではなく、自然から引き離され都会へと追いやられて、不気味な人種になり果てた」のである。
 創世記2章の記者が生きていた時代もまた、経済時代であった。彼もまた私たち現代人の問いの前に立っている。「人が独りでいる!」(2:18)。この孤独を癒すものはあるのか。人類の歴史となる神の言葉、聖書の主題がここにある。
         1月6日

    主なる神は、土(アダマ)の塵で
          人(アダム)を形づくり、
    その鼻に命の息を吹き入れられた。
    人はこうして生きる者となった。
                     (創世記2:7)
 「神は肉体において、―特別な存在の仕方をする人間の肉体において―、神の栄光を現わす。それゆえ、被造物において神が創造したままの肉体が破壊されてしまった後に、神はイエス・キリストにおいて再び肉体の中に入って行った。そしてこのイエス・キリストという肉体がまた引き裂かれた時に、今度は聖礼典において〈からだ〉と〈血〉という〈かたち〉の中に入って行く。聖餐式のからだと血とは、堕落した人間アダムのために新しい約束をもたらし、新しい現実を創造する。」(D.ボンヘッファー『創造と堕落』)。
 神が人間を創造する時に用いられた材料は土の塵、すなわち〈無価値なもの〉である。その人間が「生きる者」になったのは、神の口から命の息が直接吹き込まれてからである。人間はただ神の息によってのみ生命をもつにすぎない。しかもこの息は人間の肉体に決して内在するものではない。この逃れゆく賜物を拒否するならば人は死んだ素材に逆戻りするのである(詩編104:29以下、ヨブ記34:14以下)。
 土の塵から人間は造られたと語るこの人は、ダビデ・ソロモン時代に生きた思想家であると言われている。イスラエルが歴史上最も栄えた時代である。千年の後も「栄華を極めたソロモン」(マタイ6:29)と言われた時代である。それはバビロン捕囚というイスラエルの崩壊期を生きた創世記1章の記者が、人間を「神の像」であると語る精神性の対極に位置する。
 時あたかもソロモンの時代、それは平和と繁栄の時代であった。貿易船は海に帆を上げ、都市では槌音高く建設事業がなされてやむことのない時代であった。税金は重く、人口は都市に集中し、軍事費は膨張した(左近淑)。
 その時代を生きたこの人は深く人間の脆さ、弱さ、低さを見つめる。精神科医・神谷美恵子が高度経済成長を遂げた日本人に見たのもそれであった。「戦後二十五年のあいだに、日本では物はゆたかになったが、心はかえって飢えている・・・。」(『人間を見つめて』)。
 1970年代、私たちの国は高度経済成長の坂をひた走っていた。日本は極めて短期間に半農業国から高度工業国家、近代産業社会へと変貌を遂げたのである。この間の社会の変動の速さ、激しさは未曾有のことであり、国民が得たものと同時に、失ったものもまた計り知れないほどの質と量に達した。
 1970年代以降、新しいタイプの教団が勢いを伸ばし始める。末法思想の強調、オカルト的様相、「行」を伴う陶酔、共同体への傾斜などが極めて色濃い。不確実な現代社会の投影とみて、宗教学者はこれらを「新・新宗教」と名付けようとする。
 肉体の飢えはパンで癒される。豊かさのなかの心の飢えは何によって癒されるのか。それは「天から下って来たパン」(ヨハネ6:35)、受肉者イエスだけである。「言は肉となって、わたしたちの内に宿られた。」(ヨハネ1:14)。ここに要求されている人間観は、罪ある肉体をもつ人間こそ永遠に継続する受肉の容器として最も適した存在なのであって、世界から超絶した罪なき者が受肉の容器なのではない、ということである。
            1月5日

    天地万物は完成された。
    第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、
    第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
                   (創世記2:1−2)

「(創世記)一章におけるP(祭司記者)の意図は、ネガティブには自然神話的な宇宙生成譚に対するプロテストであり、ポジティブには創造者たる真の神に対する被造物としての世界のあり方の告知ではないかと思う。そのあり方とは何であるかと言えば、神の祝福に答えて創造者を讃美することである。『神の像』としての人間の創造の目的もここにあり、『安息日』の制定の目的もここにあるのではなかろうか。」(中沢洽樹 立教大学『キリスト教学』)。
 神は「第七の日に」仕事を完成し、仕事を離れたという。この句は三度もくり返される(2:2イ、2ロ、3)。そのうち、2イは「六日目」と訳されることが多かった。この訳では、六日目に創造の業が完成し、七日目に休むということで、より自然に思える。しかし、そうではない。天地万物の完成は「第七の日に」神が一切の仕事をやめることによって達成されるのである。だからこそ「聖別」(3)ということが言われるのである。
 第七の日は、それに先立つ第一の日から第六の日とは質的に異なる。ここには「神は言われた」もなく、「そのようになった」もなく、「夕べがあり、朝があった」もない。何よりも神はこの第七の日を「祝福し、聖別された」のである。この日は、六日間のすべての営みと努力がそれを目指す〈目標〉の日なのである。このことを最も端的に語ったのが主イエスの次の言葉である。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」(マルコ2:27−28)。
 主イエスのこの言葉がどれほど慰めに満ちたものであるかを知るには、バビロン捕囚とその後の神の民イスラエルが歩んだ歴史の苦しみを知らなければならない。割礼を行なわない民族の中で生活していた彼らにとって、昔から伝わるこの慣習が突然区別のしるしとなったのである。同じことは安息日についてもいえる。異国民の中、「不浄の土地」では、あらゆる供犠は中止せざるをえなかった。安息日と割礼は捕囚において初めて告白的状況に置かれたのであり、それを守ることがヤハウェとその民に連なるかどうかを決定するものとなったのである。
 この過程での最も重大な局面は、イスラエルがこのように理解することによって歴史から離れたことである。「今からはイスラエルは謎に満ちた歴史の向こう側に生き、その神に仕えたのである。」(フォン・ラート)。この民を再び歴史の場に導き出したのが「安息日の主」イエスなのである。
 紀元前六世紀、異国の空の下で捕囚の身で経験したことは何であったのか。「勤労とそのわびしさ」か「空しさ」か。その中で祭司記者は歴史の虚無との激しい信仰の闘いをし、完成としての休みを固く信じ抜く生き方を残したのである。
 「祭司記者がここで語っているのは、安息日という制度を神学的に強力に裏付けようとして、世界創造において七日目に神が休まれたのだといった理屈ではない。彼がここでしているのは安息日論ではない。世界の完成の問題であり、歴史の目標の問題である。この七日目はそれで完結する終わりの日である。終末の完成の日である。天地万物が再創造される希望の日である。(左近淑『低きにくだる神』)。
 この希望が十字架にあると語ったのはヨハネである。「この後イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」(19:28)。十字架こそ、大地の希望なのである。
             1月4日

    神は言われた。「見よ、全地に生える、
    種を持つ草と種を持つ実をつける木を、
    すべてあなたたちに与えよう。
    それがあなたたちの食べ物となる。」
                    (創世記1:29)

 「創造の世界に死は存在しない、そして神の国にも」
           (近藤勝彦『礼拝と教会形成の神学』)
 神が創られた世界には「死は存在しない。」神の創造行為に
「死」はいかなる位置も持っていない。記されているのは、ただ命あるものに対する祝福である。
 祝福とは生命力である。人間に未来の時を信じさせ、未来に向かって働く力である。人間に大きく未来を開く生命力である。
 創世記1章は「祭司資料」に属するといわれる。注目すべきはここには食物のことが記されているが、動物の、つまり命あるものの屠殺については一言も触れられていないのである。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧」(創世記9:3)となるのは、人間の罪を裁いた洪水後の世界である。
 祭司記者は菜食主義者なのではない。彼らは意図的に、殺して食べることについて記さなかったのである。神の創造世界においてあえて意図的に「死」について沈黙したのである。それは、彼らが生きていた状況と考え合わせると一層深い意味を持つ。
 通常祭司記者はイスラエルの崩壊期に生きたと考えられてい
る。この時代の証言に「哀歌」がある。そこにはこの時代の深淵が描き出されている。「女がその胎の実を、育てた子を食い物にしているのです」(2:20)と。この背後には、「憐れみ深い女の手が自分の子供を煮炊きした」(4:10)という現実が横たわっている。
 人肉を食う! それは、人間がもはや人間でなくなること。これ以上の闇を人間の間に探すことはできない。この凄惨な極限状況をこの人はくぐりぬけたのである。
 その人が神の創造世界においては一切、死に触れていないのである。死について断固沈黙したのである。この沈黙は実に雄弁に次のことを語っている。神の創造世界には、死は存在する権利を持っていない、神の創造世界は生命の世界であって、死はいかなる根拠も理由も持っていない、ということである。死は創世記3章の堕罪後に始めて語られるにすぎない。創造者なる神は、生命あるものを祝福する神、生命を愛する(バイオフィラス)神なのである。
 死は創造世界にいかなる根拠も理由も持たないように、また神の国においてもいかなる権利も持っていない。
   「死は勝利にのみ込まれた。
   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
                (鵯コリント15:54−55)
 この勝利の叫びは、ゴルゴダの十字架上のイエスによってもたらされた。十字架は、“もはや人間ではない人間”に命を与える大地の希望なのである。

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