1月7日
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。
彼に合う助ける者を造ろう。」 (創世記2:18)
人間は個性を喪失したばかりではない。自然から引き離されて都会へと追いやられ、不気味な人種になり果てた。…とうぜん、人間と人間との情緒的な結びつきは失われ、「個人は孤独に、おそらく歴史上のいかなる時よりも孤独」となり…仲間といっても、「砂山のなかの砂粒ほどの関係しか」(ゾンバルト)持つことができない。(森本哲郎『二十世紀の知的風景』)。
森本のこの言葉は、20世紀という未曾有の世紀の一断片を見事に切りとっている。森本は1910年イギリスのリバプールに生まれた経済学者ボールディングの、こんな言葉を紹介している。「私が生まれた時期から後に人類の状態に起こった変化は、この時期に先立つ何千年間に起こった変化よりも大きいのである。」
このように語るボールディングは、現代を人類史における第二の転換期と見る。第一の転換期は、今から五千年(ないし一万年)前に起こった「文明前社会」から「文明社会」への転換である。その「文明社会」がいまや幕を閉じ、人類は「文明後社会」へと転換しつつある、というのである。文明が崩壊したというのではない。文明がこれまでとはまったく異質なものへと転換しはじめている、というのである。
同じように現代を人類史における偉大な転換期と見るヤスパースの次の言葉と重ねるとき、私たちが直面している時代の〈異質なもの〉の正体が見えて来る。「現在は精神にせよ、人間性にせよ、愛や創造力にせよ、貧困を目ざしての破滅的な下降であり、この際ただひとつのもの、すなわち科学と技術の産物が、もちろん過去のいっさいに比しても、ひとり偉大なのである。」(『歴史の起源と目標』)。
過去二世紀間の科学技術のめざましい発展が、西洋人の精神にそれに比べられる発展をもたらさなかったことはよく知られている事実である。「あらゆる技術革新は集団の死の危険をはらんでいた」とのアンドレ・ヴァラニャックの言葉は、ヒロシマ・長崎の名とともに長く人類の歴史に記憶されるであろう。言い換えれば、人類はヒロシマ・長崎を超えて、その先の地獄に踏み入ってはならないのである。
ドイツの経済学者ゾンバルトは言う。「この一世紀半の間に西洋とアメリカに何が起こったかを理解しうるものはただ悪魔の力を信ずる人のみであろう。」(『独逸社会主義』)。彼が悪魔の力と呼んだのは、主イエスが神に並び立つ主人と言われた「富」(マタイ6:24)、すなわち「経済」である。「経済が、経済的利益が、したがってまたこれに関連して物質的需要性が、その他のあらゆる価値に対して優位をもとめ、また獲得して、そのため経済のもつ特性が他のすべての社会、文化を特質づけている」というのである。
問題はこうした人間世界の激変が人間そのものを変質させ、文化をねじまげてしまったところにある。「人間は個性を喪失ばかりではなく、自然から引き離され都会へと追いやられて、不気味な人種になり果てた」のである。
創世記2章の記者が生きていた時代もまた、経済時代であった。彼もまた私たち現代人の問いの前に立っている。「人が独りでいる!」(2:18)。この孤独を癒すものはあるのか。人類の歴史となる神の言葉、聖書の主題がここにある。