1月3日
神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
(創世記1:26)
「社会福音派運動の神は、人間のすべての理想的属性を具現化したものとほとんど変わらない、愛と憐れみという存在だった。」(デイヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』)。
神を人間の像に似せて造る世界にあって、聖書は、人間は神の像に似せて造られていると語る。私たちはこの言葉の衝撃を、
「だれが報告しているのか。いかなる観点から報告されたのか。報告者の歴史的場はどこに推測しうるのか。その際、いかなる意図が彼を導いたのか。いかなる見解、いかなる伝統に彼は属しているのか。」(フォン・ラート)を知る時に真に体験する。
この言葉は、学者たちが「祭司記者」と呼ぶ歴史家によって書かれている。イスラエル民族最大の危機、バビロン捕囚後の人である。バビロン捕囚は、主なる神を捨てて異なる神々を拝んだことに対する神の裁きとして起こった。捕囚期の預言者エゼキエルは、その当時の人々の言葉を伝えている。「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる。」(37:11)。
アウシュヴィッツの生存者フランクルはその経験を『夜と霧』に著した。その中の「絶望との闘い」でこう記している。「・・・一つの未来を、彼自身の未来を信ずることができなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的に転落したのであった。」
創世記1章の記者はこの未来を失い、「内的に崩壊し身体的にも心理的に転落した」人間を前にして、あなたがたは神の像に似せて造られている、と語りかけたのである。その意図は何か。中沢洽樹は、「神の像」としての人間の創造の目的を「安息日」の制定の目的と同じく、「ネガティブには自然神話的な宇宙生成譚に対するプロテストであり、ポジティブには創造者たる真の神に対する被造物としての世界のあり方の告知ではないかと思う。そのあり方とは何であるかと言えば、神の祝福に答えて創造者を讃美することである。」という。これは聖書の認識である。詩編102編19節にこうある。「後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」
この神の像は、神への反逆ゆえに裁きを受けた後もなお残存するのである。み言葉にこうある。「神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。・・・アダムは・・・自分に似た、自分にかたどった男の子をもうけた。」(創世記5:1、3)。
その罪ゆえに裁かれてなお、人間は「神の像」であると語るこの人の目に、人間はどのように見えていたのだろうか。知りたいと思う。それには、神を「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ4:24)しかない。霊と真理とをもって神を礼拝するとは、「主よ、あなたの御名のために、罪深いわたしをお赦しください。」(詩編25:11)と祈ることである。この祈りを欠くとき、人間は自分に似せた神を造り出すのである。